株式会社阿部工業 様
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第三回 株式会社阿部工業 様
永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?
企業プロフィール
会社名 : 株式会社阿部工業 様
住所 : 東京都板橋区東新町1丁目6番1号 第2阿部ビル
代表者 : 代表取締役 阿部 吉明 様
会社設立日:1989年有限会社設立
事業内容 : 軽量鉄骨工事、ボード貼工事、耐火遮音工事、
耐震天井工事、システム天井工事、GL工事、S1工事
第三回のお客様は、東京都板橋区にある
株式会社 阿部工業 代表取締役社長の阿部吉明さんです。
インタビューを受けるのは今回が初めてという阿部社長。
まずは阿部社長の人生に無くてはならない方、先代の社長のお話から伺います。
株式会社 阿部工業 代表取締役社長の阿部吉明さんです。
インタビューを受けるのは今回が初めてという阿部社長。
まずは阿部社長の人生に無くてはならない方、先代の社長のお話から伺います。
「人生を変える出逢い」
- 阿部社長)先代の社長無くして、今の自分が無かったのは間違いありません。
先代というのは、実は私の19歳年上の家内(洋子さん)のことです。
彼女と知り合った場所は、まだ私が30歳を過ぎたばかりの頃、東京・練馬で彼女のお姉さんが営んでいた小料理屋。お酒が大好きで左官職人だった私は、そこで常連客のまとめ役を任されるぐらい、毎晩のように店に入り浸っていました。
そんな生活が5~6年続いていた中、当時札幌在住で、用あって東京に出てきた彼女をお姉さんから紹介されたのが最初の出逢い。それ以来、彼女は私たち常連客が行っている旅行などにも顔を出すようになり、やがて私と夢物語を語り合うような近しさになったのです。
札幌で書道の先生としてすでに成功していた彼女ですが、聞き出した夢は「どんな業種でも良いから、いつかは会社を持つ」ということ。そこからさらに関係が深まるうちに「そうか、じゃぁ一緒に会社を作ろうか!」となり、心が重なったことにより、ついには「どうせやるなら、一緒に家庭も持とう!」と。
私33歳、彼女52歳。19歳差でしたがそんなことは全く気にならず、公私ともにパートナーとなりました。
「二人三脚で始まった新会社」
- 阿部社長)二人で会社をやると言っても、私は左官の腕を活かした会社以外は考えられませんでした。・・・しかし、ここで問題が。
今までお世話になった会社の商圏、お客さんを荒らすわけにもいかない。
そこで目を付けたのが自分でも腕に覚えがあった吉野石膏さんのGL工法だったんです。
「よし、これの専門家としてやってみよう。独立しよう!」。 その知らせを聞き「GLをやるなら応援するよ」、という会社さんも現れて、
エイヤ、とばかりに1988年、GLの専門家、阿部工業がスタートしたわけです。
仕事をやるのにあたり、いつも意識していたのは
「人がやらない、やりたがらない仕事に手を挙げること」。
当時はGLボンドの接着力が今ほどは強くなくてね、仮押さえに突っ張り棒みたいなのをしていた時代ですよ。そんな面倒な現場は、誰もやりたがらない。他には荷揚げ用の設備のないところとかね・・・全部手揚げですから。しかし、うちはそんな現場こそ積極的に手を挙げてやらせてもらいました。辛い現場は優先的に仕事をもらえるし、そのうち頼りにされるようになる。その積み重ねが信頼につながっていったのだと思います。
それでも行き詰る時はくる。特に会社を立ち上げて間もないころはそんなものです。
ある時、他の現場で出会った方に連絡をし、首尾よく仕事に呼ばれたのはいいが、何とそこで未払い問題が起きました。頭を抱えた先代と私でしたが、二人できちんと現場を収め、お金の件も解決し、信用を得ると、今度は先代が発注先に直談判をして、見事に直契約を勝ち取ってきた。もともと劇団のプロデューサーをしていたような人でしたから、俯瞰で物事を見ることができる、腹が座っていた人でした。一左官職人だった俺を育ててくれたのは、間違いなくこの人ですよ。
<現場叩き上げ!阿部社長が考えた仕事グッズ>
阿部社長)GLで立ち上げた会社ですが、将来的にGLだけではやっていけなくなるだろう、というのは分かっていました。そこで仕事で経験していた軽量鉄骨を始めたのです。
そこでは色々な工夫をしました。
(※阿部社長が発明した「良い作業に導く工夫」。数多い中からその一部をご紹介します)
そこでは色々な工夫をしました。
(※阿部社長が発明した「良い作業に導く工夫」。数多い中からその一部をご紹介します)
~ランナーとスタッドが接する隙間が、一発でわかる検査棒~
- 床から遊びが無いと起こせないので、そのために少し上を開けるんですが、上部ランナーとスタッドが接する場所の隙間が13mm以下(※当時)と決まっていて、この頭の丸い部分を13mmで作ったんですよ。つまりスッと入ってしまうと13mm以上あるということになりますから「これではダメですよ」、と。これがあると検査の時間が大幅に減らせるんです。
~古タイヤゴムチップで遮音壁~
- 既存壁の遮音性能を向上させたい時は、通常はボード増し張りか、壁の再施工しかない。けど、どちらもやりたくないでしょ?そんな時にブロアを使って2mm以下に刻んだ古タイヤを壁の中に入れるんです。早くできるし、共鳴音も止まるし、壁を壊す必要もないでしょ?これにね、鉛ボードを張り合わせると遮音性能が改善するんですよ。大手ゼネコンさんの技研でも実験して採用された、私が考えた手法です。これね、不思議なもので新しいゴムチップだと粘り気が多くて壁の中に充填するのが難しいんです。古タイヤの方が良いなんて面白いでしょ。
~接着剤を均一に塗布するローラー~
- (こちらは現在検分中のアイデア商品です)
昔は棒の先に糊をつけて、ちょんちょんと点付けやったの。けど目分量でしょ。
これなら誰がやっても同じように、糊を均一に、一定量を持ち上げて付けていけるんですよ。
仕様書で塗布量は決まってますからね。
<社章に込めた思い>
- うちの社章、ここに全てが込められています。
創業者である妻と私の名前、洋子と吉明のYとY。
そして最初の職人として入社してくれた方のHを重ねたマークです。
会社設立時の大いなる喜びと、初心だからこそ持つ、胸に燃える熱意をいつまでも忘れないように、ユニフォームをはじめ、多くの装備品に刻んでいます。
<・・・・阿部工業様の“吉野愛”に触れて>
- 「昔ね、せっこうボードが不足した時代があって、それこそトラックの荷台から盗まれるようなね。どこのメーカーも欠品が相次いだんですよ。ただそんな時でも吉野さんだけは、うちにあらゆる手をつくして材料を供給してくれたんです。だから『他からボード融通するよ』、と誰かに言われても私は頑として『いらない!』と言い張った。それ以来うちは吉野さんとしかやらない。仕事っていうものは、つきつめると“信頼”と“心意気”なんです」。
阿部吉明さんという人は、職人気質で、工夫を惜しまず、義理人情に厚く、情にほだされる方。令和の時代に生きる、まるで武士のような方で、魂が揺さぶられる発言が続く中、何度も、何度も、亡くなられた奥様で先代の社長である洋子さんの思い出話をされていました。
「間違いなく、彼女は稀代の名プロデューサーでしたよ」 阿部社長が絶賛される、阿部洋子さん。
そんな思い出話を伺いながら、タイガーくんは
「洋子さんの生涯一番の作品は、間違いなく“阿部吉明社長”だよなぁ」、と
確信しておりました。