吉野石膏株式会社


株式会社 本田一 様

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第八回 株式会社 本田一 様

永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?

企業プロフィール

会社名 : 株式会社 本田一 様

住所 : 神奈川県横浜市南区万世町1丁目17

代表者 : 代表取締役社長 関戸 理恵 様

会社設立日:昭和25年9月1日

事業内容 : 内装工事店

URL :

第8回のお客様は、神奈川県横浜市にある

株式会社 本田一 代表取締役社長の関戸理恵さんです。

「困ったなぁ、本当にお話するようなことが無いんですよぉ・・・」と言いながら、私たちにご用意いただいた飲み物の温度まで気配りをされる関戸社長。

そこかしこから優しさが溢れていらっしゃる方だなぁ、と感心しつつ始まったインタビューの口開けは「本田一」という社名の由来からお伺いします。

<「本田一」という社名の由来>

関戸社長)私の祖父が北海道から出てきて、こちらの材木問屋さんにご奉公したというのがそもそも話の始まりです。

祖父は結婚後に木材販売の仕事を始めたのですが、戦争があった時代ですから木材の需要は多くあり、社屋を建てるまでになりました。

最初の社名は「本田木材株式会社」です。


 この社屋の目の前に、上に高速道路が通っている川がありますが、その高速道路すら無く、柳の木が茂っていた頃、川に材木を引き込んできて、近くの製材所で木材とし、それをこれまた近くの市場で販売していました。その頃からせっこうボードも置かせて頂いていましたね。


 その後、母(現・代表取締役会長 関戸貞子様)の代となり、「木材の仕事だけでは・・・」、という時代の流れの中で、内装工事を手掛けるようになりました。仕事内容は当時、大工さんがなかなかやらなかった「市営や県営などの集合住宅の壁に、接着剤で化粧合板を張る」という工事の専門会社です。

それを皮切りに、そこから他の内装工事も手掛けるようになりました。


 となると社名が「本田木材」では、どうにも実態と合わない。その時に祖父が「じゃ、本田に一を付ければ?」と言いだしまして(笑)。

多分その頃は、有名なあられの会社もありましたし、きっと流行りだったんですね、一(いち)って付けるのが。

もう、その一言で決まったんだと思います。

 内装工事の会社って不思議な名前の会社が多いような気がします。一回で名前を覚えていただけるのはとても良いことですから、そういった意味では良い名前だなぁ、と今となっては思います。

 

タイガー)本田一になって、お母さまが社長として切り盛りされたのですね。

 

関戸社長)はい。弊社は創業昭和25年という古い会社なんですが、昔の仕事や図面などは全く残っていないんです。

と言うのも母の時代は「現場事務所に行って、所長さんとお話をして、金額を決めて、お茶飲んで・・・」で、仕事が決まる時代だったんですね。

だからうちの母は仕事を決めてくるのに現場にヘルメットを被って行ったことが無い。作業着も着たことが無い。

私たちが作業着を着ていると「なんでそんな格好しているの?」と良く言われました。母にしても、祖母にしても建築業界の女性としては、パイオニア的な存在でした。


 そもそもはうちの父が、祖父の会社をやるはずだったんですが、私が小学校3年生の時に病気で他界しまして、やる気もあった母がそのあとを継いだという歴史があります。吉野石膏さんとのお付き合いも、その頃からだからとても古いですよ。ずいぶん前に頂いた記念の品もちゃんと保管してありますし。

  • 新社屋お披露目の日

  • 須藤永次、須藤恒雄両社長の名と、60、70周年と記載された記念品

<関戸社長の学生時代のお話をお伺いします>

関戸社長)幼少の頃は家族全員が仕事で忙しいので、私たちの面倒は社員の方、そして小学校低学年ではお手伝いさんが見てくれていました。

ただ私たち姉妹は小うるさいお手伝いさんのことが苦手で、ある日、追い出しちゃったんですね(笑)。

となると「自分たちで家のことをやりなさい」とお鉢が回ってくる。つまり食事の準備などの家事をやらなきゃいけないってことになったんです。

 小学校の高学年には、毎日夕方6時に帰宅してくる親のために、食事の支度を整える日々になりました。けどこれは「大変だぁ!」という話ではないんです。中学に入ると、今度は「せっかく食事を準備するのだから」と量をかなり多めに作って、毎日のように下校時の友達を家に呼ぶようになりました。コロッケ60個とかね(笑)。


 つまり、このおかげで私は仲間外れにならずに済んだ。食べ物があると、人は寄ってくるのです(笑)。

中学、高校は自宅の近くでしたから学校が終わると多くの友達がうちに寄ってくれて、私が作ったご飯を一緒に食べる日々。共学ですからもちろん男子もです。腹ペコ盛りの友人たちは、うるさい大人がいなくて、しかもご飯がある、という秘密基地みたいに感じていたんじゃないですか?

皆は多分助かったろうし、そして私も救われた。仲間と一緒に過ごせる楽しい時間でした。近所に大きな商店街(横浜橋通商店街)があって、買い物にも困らなかったですしね。

 

 私は与えられた仕事はきっちりやらないと、っていう性格なんですね。いまだにそれは続いていますが。ですから毎日の食事作りも、人に喜ばれることが嬉しかった、ということもありますが、全く苦にはならなかったですね。これが高校卒業まで続きました。

 

 部活はバレーボールやテニスをしていましたが、高2以降は部活熱も冷め、横浜駅でウインドショッピングを楽しんでから帰宅するなど、緩やかに楽しく過ごした記憶が残っています。

 

 高校を卒業してからは国内で進学しないで、祖母の同級生が住んでいたご縁で、祖母に勧められてハワイの学校(関西外国語大学ハワイ校)に行ったんです。日本と行ったり来たりしながら、2年間通いましたね。

当時の私は内弁慶の引っ込み思案で、例えば飲食店でオーダー後、意と異なるものが出てきても黙ってしまうような子だったんです。

当時の思い出で、今でも残念だったなぁと後悔しているのは「・・・その時に、ゴルフをやっていればなぁ・・・」です。

何といってもPGAツアーのソニーオープンが開催されるワイアラエカントリークラブの隣に住んでいましたから!

  • 学生時代の思い出を語る関戸社長

  • マスターズのポスターが貼られたオフィス

<日本に戻られてからのお仕事>

  • 関戸社長)21歳で日本に帰り、友人の紹介により歯医者さんで歯科助手の仕事をやることになりました。27歳の時に母から「とても仕事が忙しいので、ちょっと手伝って欲しい」と連絡があったので、アルバイト感覚で安請け合いして出社してみると「今日からうちの娘が社員になりました!」と紹介され、私が一番ビックリ!しかし、なんとなく覚悟をしていたのでしょうね、迷わず「宜しくお願いしまーす!」と、ご挨拶をして今に至る、というわけです(笑)。

    初めの仕事は免停を受けた社員を、車で現場に送り迎えすること。


     とは言え、ハワイで免許を取った私ですから、そりゃ、危なっかしかったと思いますよ~。そこからは毎日、現場監督さんたちとの話の輪の横っちょに加わりながら仕事に接して、覚えていきました。仕事だけでなく車の運転だって、マニュアル車まで運転するようになっていましたからね。ここで現場の仕事をたくさん見て、自分の体で感じられたことは、そのあとずっと、今に至るまで大きな財産として残っています。 

     

     自分の性格的にも現場型、職人さん寄りなのかなと思います。工作好きの人が夢中になっているのと同じ気質と言うか、現場にいるととにかく楽しいんです。なんでもやってみたくなっちゃって。ソーラトンだって実際に張っていましたし、せっこうボードも、耐火間仕切りも、この手でやってみましたからね。だから現場に行く時は身ぎれいなよそ行き姿では無く、いつでも体を動かせるような恰好をしていました。それは今も変わらないですね。監督さんが途中で逃げてしまうような厄介な現場をあたふたと引き継ぎ、納期当日の本当に深夜0時に仕事が終わり、先方の「・・・(何とか)終わったな」という一言に、すごく感激したというような思い出も残っています。

<本田一のお仕事>

関戸社長)内装工事って専門性が高くて、工程ごとに○○屋さん、って分かれるじゃないですか。それが気になっていた母は常々「多能工になりなさい!」と言って回っていました。それを受けて、うちとお付き合いのある型枠大工さんだった方が、そのうち色々な仕事をできるようになったんですね。

断熱ボード張りから始まって、せっこうボード張り、仕上げ工事、フローリング張り、壁紙・・・。そんな職人さんを現場に連れて行くと「これは便利!」と重宝されました。当時は総予算内で収まればOKという締めでしたから、「仕上げ段階になったら『本田一』一社で、全部終えられるじゃないか!」とね。今は工程ごとにお金も締めますから、分業になってしまいましたね。ですから今は集合住宅で「軽鉄下地を組んで、せっこうボードを張る」という仕事を主体にやっています。

 

 社長になってからは思い起こせば毎日、無我夢中で過ごしてきました。やはりこの世界では、特に昔は、女性であったがゆえに得したことが多かったかな、と思います。現場の所長さんに追加予算を頂きに上がった時などでは、思い当たる節がありますね。


 あとは、「女性ならではの細やかな視点があって良いね」と褒められることも多かったです。特に改修工事などでは、実際に家事をしているからこその気付きがあるので、お褒めを頂きました。

<本田一様の“吉野愛”をお伺いいたします>

関戸社長)シックハウス症候群に有効なハイクリンボードは、昔からテレビCMで見てきましたから、ご存じのお客様が多いなと思います。ホルムアルデヒドでお悩みの方は実際に「あっ、ここにある」と凄く感じるそうで、本当に深刻な問題ですから、有効な商品だと思います。

 

タイガー)吉野石膏が昨年3月から展開しておりますインスタグラムには、施主様にも「壁博士」になっていただきたい、という願いがあります。

 

関戸社長)機能性の高い商品の紹介を、ポイントだけをすっと伝えられるインスタでまとめていらっしゃるのは、とてもいいですね。お勧め、アリだと思います。

・・・吉野さん、商品がきめ細やかすぎるんです。防水ボードとか、需要が減ってきたボードは整理を考えて良いかもしれませんね。またいくつかの機能をひとつにまとめた万能ボードを作られるのもいいかもしれません。そちらも細かく管理されるのは大変でしょうし。あと、GLをやる方が高齢の方ばかりになってきちゃったから、吉野石膏さんが若い職人さんを育ててくれないかしら??

<インタビューを終えて>

  •  「・・・私の代で、この会社を終えてしまおうと思っているんです」と、インタビューの最中に突然おっしゃられた関戸社長。

    「この大変な仕事をやりたい、って人は、なかなかいないんですよ」。

    何か言葉を繋がなくてはと思い、タイガーくんが絞り出した質問「ではその日に向けて、何か道筋をつくっていらっしゃるのでしょうか?」に対して、関戸社長は、あっけらかんと、

    「ううん、何も無いの!だって毎日が大変だもの。現場って、次々とつながって全然止まらないし!」と笑顔で答えられていました。

     

    とにかく笑顔が素敵な関戸社長。

    大好きな海外旅行に心置きなく行ける日が来るまで、どうぞお元気でご活躍ください!

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