協同建材株式会社 様
第十四回 協同建材株式会社 様
永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?
企業プロフィール
会社名 : 協同建材株式会社 様
住所 : 静岡県浜松市南区若林町2582番地
代表者 : 代表取締役会長 山下晴久 様
会社設立日:1947年(昭和22年)3月1日
事業内容 : 建材販売/建築専門工事業(内装・外壁・ALC・ ベースパック・屋根・板金・防水・塗装・改修)
第14回のお客様は、静岡県浜松市にある
協同建材株式会社 代表取締役会長の山下晴久さんです。
「ようこそ!こちらにどうぞ」と応接間への階段をスタスタと上がっていかれる
その健脚にまずはびっくり!
浜松大好きエネルギーが溢れる中、会長の優しさに包まれたインタビューになりました。
<協同建材の歴史>
タイガー)まずは「協同建材」という会社について教えてください。
山下会長)協同建材はまだ私が生まれる前、私の父親と父の叔父の二人で始めた建材店です。今年で創業78年目になります。子どもの頃は住宅兼資材置き場のような家だったものですから、中学や高校時代のアルバイトは父の仕事の手伝いでした。吉野石膏さんの商品に初めて触れたのもその時です。うちは湿式建材の販売からスタートした建材業でしたから、「YNプラスター」のような練り物、粉物の袋をオート三輪やリヤカーなどを使って運ぶ仕事でした。ラスボードも運びましたね。その影響なのでしょうか、今でも湿式建材で築かれた室内空間が好きでしてね。・・・それにしてもこの積み下ろしは重くて、しかも夏休みなんかはすごく暑くて。辛かったなぁ、という思い出があります。
静岡県浜松市は製造業の多い街で、昭和40年代には繊維(近藤紡、東洋紡績)、楽器(河合楽器、日本楽器)、オートバイや自動車(鈴木自動車、YAMAHA)といった会社が急成長していました。そうなるとそれらの工場や隣接する事務所といった建築需要が次々と飛び込みますから、建材を売るだけでなく、外壁、屋根、内装、防水と工事にも徐々に手を広げていきました。
吉野石膏さんの創業122年にはかないませんが、まずは80周年、そしてその先は大台の100年、という日を見据えて、そのためには私が好きな言葉である「会社の信用と信頼」、これが無いと続けていけませんので、しっかり心に置いて進んで行きたいと思っております。
<山下会長の学生~就職まで>
タイガー)会長はいつからこの会社でお仕事を始められたのですか?
山下会長)今から48年前、27歳のころです。私は大学を卒業して、最初は自分で探したアスファルト乳剤を扱う会社(現:ニチレキ株式会社)に入社したんです。というのは、ゼミで経営学を学んでいたこともあり、実社会で労務管理や総務の仕事に就きたかったんですね。そこでそれを叶えてくれる会社を探す就職活動をしており、たまたま場所が学校の目の前だったんですが「私の願いを聞いてくれる」という感触を得たものですから、入社を決意した、というわけなんです。ところが入社すると、まぁ大人の世界ですから、いつの間にやら約束は反故にされ、君は営業が向いていると言われ、配属はいきなり大阪支店。仕方ないか、と大阪に着くとその場で「勤務地は四国です!」と告げられ、椅子も温まらないうちに、その足で今度は連絡船に乗り、高松へ。まるで漫画みたいな展開でしょ?混乱いっぱいの中で着いた高松港に掲げられていたスローガン「本土に懸け橋を!」は今でも鮮明に覚えています。高松工場では1か月、アスファルトが詰まったドラム缶を転がす研修を受けた後にやっと赴任したのは徳島県でした。徳島では県の土木課、道路課を回る日々でしたが、この道を作っていく仕事って面白くてですね、3年もやるうちに「これは私の天職だ!」とまで思うようになっちゃったんです。25歳のころですね。
ところが当時は25~26歳ぐらいでお嫁さんをもらうような時代でして、ある日父から連絡があり、父との何年かの話し合いの結果、最後は愛媛県出身の妻となる女性を連れて浜松に戻ったんです。
<「吉野石膏」についてお聞きします>
山下会長)もう、年表書かないといけないぐらいのお付き合いですよ。実はうちの事務を長くやってくれている社員に「今日、吉野さんの20年前にご担当だった方(永野さん)も一緒にみえるよ」と言ったところ、じゃあ、思い出してずらっと歴代の吉野石膏担当社員を並べてみましょう、という話になりましてね。
タイガー)三輪は永野の前の担当でして、その前は山際。現在の野村で8人もお世話になっています。吉野の営業マンは特徴がございますか?
山下会長)弊社の長く勤めてくれている女性社員が吉野石膏さんに発注する窓口の立場だったんですね。それだけにやり取りが多く、慰安でも記憶にたくさん残っているようです。皆さん個性的ですしね。それぞれに話題が豊富でお話が弾む、といった印象があります。
私は親戚に日本画家(※日展の審査員も務める山下邦雄画伯。邦雄の祖父は墨絵の山下邦太郎、父は油絵の山下太郎)がいるなど絵画が好きなものですから、絵に造詣が深くコレクションまでお持ちの吉野さんからの、東京や名古屋などの展覧会は楽しみで良く足を運んでいますので、その話は弾みますね。仕事の話はあまりしていないかも(笑)。けどね、話に付き合ってくれるのは嬉しいものですよ。それが仕事の潤滑剤ですからね。
タイガー)吉野石膏の社員の多くが「最も吉野愛に溢れた方の一人」として山下会長の名前を挙げています。
山下会長)現在の林支店長さんを始め、金丸さんとか、石井さんなどの支店長さんにもお世話になりました。
タイガー)個々の名前まで覚えていていただいて、本当にありがとうございます。吉野の商品についてはいかがでしょうか?
山下会長)量的にはプラスターボードが一番多いですね。あと曲面が作れる外壁材のデラクリートの取り扱いを伸ばしたいということを考えています。
タイガー)デラクリートでは、弊社で展開を始めた時期に作った「デラクリート施工店会」で、真ん中に立って牽引していただき、また、浜松の設計事務所さんの多くに商品をご紹介いただくなど、大変お力添えをいただきました。本当に感謝しております。
山下会長)吉野さんからね、前年対比で今年はこれぐらい扱っていますよ、という報告(※月次数量計画目標)が3か月ごとにくるんですね。私はそれを「成績表」と呼んでいるんですが(笑)。これが担当の野村さんから届くんです。これを基に社員を叱責したりしましてね(笑)。これはファイルにしてずーっと前から取ってあります。うちと吉野さんの歴史年表みたいなものです。吉野石膏さんから教えていただいたこのように目標を持って仕事をする、というやり方は、会社全体ではもちろんの事、他の商品の扱いや、工事部門などでも、仕事への向き合い方として大切なのだなと思っています。
私たちも吉野さんの商品を扱うだけでなく、この浜松の地で一緒に吉野石膏の商品を拡販させていただこうと考えています。私は現在の吉野の商品ラインアップで十分だと思っているのですが、うちの社員に聞くと仮囲い用の化粧ボードの白さをもっと白く、とか、切った時に粉が出ないように、とか、ビスが効くボードが欲しい、などの願いがあるようです。
タイガー)ご提案ありがとうございます。本当に心強いご支援をいつもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
<お仕事で大事にされていることを教えてください>
山下会長)最初に就職した会社で習った、「種を蒔いて、それを実らせて刈り取れ」です。どんなに仕事があっても刈り取りばかりしていたら、いずれダメになります。会社としても大切な行動指針にしています。社是は「挑戦・創意工夫・一致協力」。特に仲良く協力して仕事を行うことは大切ですね。
タイガー)ありがとうございます!今後ともご愛顧をよろしくお願いいたします。
<インタビューを終えて>
中部タイガー会、耐遮会、の思い出を楽しそうにお話になる吉野愛に溢れる山下会長。
吉野コレクションを見るのが大好きとお話になる、山下会長。
応接間の壁を「タイガーケンコート」で塗り壁に仕上げ、それをわざわざ貼り紙で告知してくださっているなど、端々に噂通りの「吉野愛」を感じました。学生時代は放送部、そして法政大学弁論部で鍛えたトーク力に包まれ、すっかり時間を忘れ、会長のお話に聞き入ってしまった1時間半のインタビューでした。
どうぞいつまでもお元気で、会社と浜松の発展のためにご活躍ください!