吉野石膏株式会社


加藤建材工業株式会社 様

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第十七回 加藤建材工業株式会社 様

永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?

企業プロフィール

会社名 : 加藤建材工業株式会社 様

住所 : 群馬県藤岡市上戸塚11-1

代表者 : 代表取締役 粕川 晃 様

会社設立日:1985年7月23日

事業内容 : 内装仕上げ工事業(群馬県内、関東地域)

URL :

第17回のお客様は、群馬県藤岡市にある

加藤建材工業株式会社 代表取締役社長の粕川晃さんです。

 

真っ黒に日焼けされた方が多いこの業界ですが、なおかつ引き締まった身体の方はなかなかお会いしません。みるからにスポーツマンの粕川社長にお話を伺ってみると・・・やっぱり!

<プロサッカーコーチとして12年間>

粕川社長)私は37歳を前にした年にこの会社に入ったんですね。大学を卒業して、始めの2年間は群馬ゼロックス(当時)という「オフィスの印刷複合機」を売る会社で営業マンとして働いていました。次に先輩の会社に転職し、サッカーコーチとして12年間、母校・前橋商業のサッカー部コーチをやりました。いや「なぜこうなったか?」なのですが、流れに飲み込まれたと言いますか、自分の意志で決めてはいるのですが、次々に手が伸びてきた、と言いますか・・・。

 

タイガー)学生時代に活躍されたサッカーが呼び込んだ人生、という感じなのでしょうか?

 

粕川社長)そうかもしれないですね。私は小学校からサッカーをやっていまして、全国大会やインターハイへの出場も叶ったほど、学生時代はサッカーを中心とした生活でした。

 大学に行ってからも暇を見つけては母校を教えるために足を運ぶなど、サッカー、特に高校時代のチームとは付かず離れずの関係だったんですね。そんなある日、母校の試合を見る機会がありまして・・・。

 

 その年のチームは春の遠征などで好成績を収めてきて、先生は自信を持っていたんですね。ところが、私が見にいった試合でライバルの前橋育英高校に大敗したんですよ!

 ・・・すると、その翌日に私に連絡が来たのです。

 

 「今日の夕方4時に、前橋商業に来てくれ」

 「・・・ん、何事だろうな?」

 

 頭の中に??がいっぱいの中、母校に行ってみると、そこには先生と先輩OBもいらっしゃって、みんなに囲まれて言われた言葉が、

 

 「お前、このチームのコーチやれ」

 「え?」

 「今の会社辞めて、コーチやれ」

 「いやいやいや、先生、何をおっしゃっているのですか、私、ゼロックスの社員ですよ!地元優良企業の(笑)」。

 

 そんなの無理な話としか思いませんよね。すると、うろたえている私の姿に畳みかけるように監督が突然「集合っ!」と叫んで選手全員をその場に集めました。そして私に何も了解をとらずにこう言ったんです。

 

 「こちらが来週からコーチで来てくれる粕川先輩だ。じゃ、一言挨拶を」

 

 その時は関東大会の予選後で、すぐにインターハイ予選が始まる時。考える時間がほとんどない待ったなしの状態ですよ。

 「・・・どうしよう。・・・けど、こりゃ本気だなっ」

 て、なりまして。

 それで、そこから3日ぐらい考えて・・・。

 

タイガー)でもたった3日なんですね(笑)

 

粕川社長)ええ(笑)。で、出した答えが「引き受けよう!」でした。

 3日後、意を決し、ゼロックスの上司に伝えますと、予想通りの反応が返ってきました。

 

 「あの・・・、突然ですが退職します・・・」

 「何っ!?」

 

 まぁ、当然ですが、こうなりますよね(笑)。

 

 事情を聴いた営業部長と担当支所長がすぐさま母校に出向いて、「なぜ辞めさせるんだ!」と問い詰める騒ぎになりました。そしたら今度は先生が「じゃぁ、粕川をゼロックスの社長にまで出世させると約束してくれ、ならば諦める」と。しかし、それを約束できる人はいないですよね。そこで会社を辞めることとなり、先輩の会社に所属として社員のかたちを取りながら、コーチを行うことになりました。

 そこからの12年間は外部コーチとしてやることになったんです。当時、殆どの高校チームは教員が教えるスタイルでしたから、高校チームがお金を払って外部コーチを招聘するのは全国でも私が先駆けだったのかな、と思います。

  • <前橋商業サッカー部時代・ボールの後ろが粕川社長>

タイガー)サッカーのプロコーチから、この会社に入られたきっかけは何だったのでしょうか?

 

粕川社長)実はこの会社はうちの妻の実家なんです。彼女のお父さんが創業者なんですね。

妻との出会いは、私が25~26歳ぐらいの時。元同僚のご縁で、あるパーティーに出席した時のことです。彼女はライバルサッカーチームのマネージャーをやっていたので、ベンチでの姿に記憶がある、見たことがある顔だったんですね。そこで、これをきっかけにしない手はないと(笑)声をかけたのが最初です。いや、うちの妻は私が言うのもなんですがいい女ですよ。腹が据わっていて、自分の物差しをもって、実に考えが深くて。おうちでしっかりとした教育をされたのかもしれませんが、お世辞抜きで、さすが先代社長の娘、と感じることが今でも良くあります。

  • <会社の礎である故加藤一夫氏の書>

  • この会社は東京の加藤建材(株)という会社の北関東営業所的な位置づけとして、そこから独立した彼女のお父さんが始めた会社なんですね。ある日、東京の創業者である故加藤一夫氏が、体調不良になりましてね。それが60歳の時だったものですから、前社長である義父も60歳で会長職として退き、会社の進む方向を考えていたんです。当時は跡を継ぐ人もいない、という状況でしたから。

     

     一方で私の状況ですが、サッカーのコーチをしている間は、この会社に入社するという話は一切なかったんですよ、私の中の考えでも。・・・ところが、です。前橋商業で私の恩師にあたり、長く監督として指導をされてきた先生が他校に変わられる、というタイミングが来て、私の後輩が後任に座ることになりました。その方は私の教え子でもありますから、私は「私がいてはやりづらいだろうな」と考え、私自身も子どもが3人いる中で、このまま外部コーチでいいのだろうか、という葛藤を持ち始めておりました。この二つのタイミングが合致致しまして、私の中に「跡を継いで、やってみようか」という気持ちが生まれたんです。

    もちろん二足のわらじが叶うような甘い世界でないことは重々承知していましたし、義父からも厳しく釘を刺されましたので、この時サッカーとの縁をすっぱり切って、36歳にしてこの内装の仕事一本の生活が始まったわけです。

     

粕川社長)当時、会社は業績が悪く、この会社に来ても仕事が無くてですね(笑)。私も土木に関しては多少経験があったわけですが、こと内装工事になると全く分からない。義父からも既存のゼネコンは与えない、自分で開拓しろ、と言われましたし。そこで「世にも有名なゼロックス営業」で鍛えた飛び込み営業をひたすら行いまして、お客様を獲得していきました。この時に感じたのは地元の建設業界で「加藤建材工業」という名前が知れ渡っていた、ということです。おそらく大手ゼネコンのJVで、知らず知らずのうちに当社の名前がインプットされていたんでしょうね。だから見積もりも比較的やらせてもらいやすかったです。これも先代が築いてくれた財産だったんですね。

 

タイガー)では比較的とんとん拍子で進んだのでしょうか?

 

粕川社長)ところがね、この仕事は営業して品物納めてではなく、職人が仕上げて初めて完成でしょ?この職人がいなくなっちゃったんですよ。これは困りました。知り合いに電話しまくって、本当に当日の朝来てくれるか、ひやひやの連続でした。もし、約束通り仕事を納められなかったら、信用を失い、次が無いですからね。このころは毎日眠れませんでしてね、これが42歳で社長になるぐらいまで5年間ぐらい続きました。


<「吉野石膏」についてお聞きします>

タイガー)吉野石膏とのお付き合いをお聞かせいただけますか?

 

粕川社長)37歳手前でこの会社に来てから、ということになりますよね。初めての接触は現場で荷揚げの手伝いですよ。その時せっこうボードが2000枚ぐらいだったかな。もう「なんて重たいんだ!」以外の感想なんてないですよ(笑)。ずっとスポーツをやってきた私としては、そこそこ力作業の自信はあったのですが、もう全く歯が立たずで。けど現場の職人さんはスパンと上げちゃうんですよね。一方で私は手もガチガチになり、腿にはせっこうボードを降ろすときにできた内出血のあとだらけで、おまけにドスンと落として割ってしまったりして、もう厄介もん扱いでした。

 

吉野石膏の営業マンとも良くお話しをしますよ。現場のスケジュールの話とか、あとはやっぱり単価の話かな。メーカーさんの価格がゼネコンさんに転嫁できればいいんですけれども、ま、なかなかそうもいかないですからね。

 

多分リサイクルの初期のころだったのかな、私が入社したころは職人がカッター入れるとボロボロッとなることもあってね。営業さんを呼んで現場で見てもらったことがありました。しかし今では高品質で、非常に均一化された良い商品を納品していただいていますから、現場からの声も減りましたね。あとは、やはり安定供給です。これが何といっても一番。せっこうボードが無いと現場が進みませんからね。決められた日時に決められた数量をちゃんと納めてくれるところに、吉野石膏に対しての絶大な信頼があります。色々な材料が入らない、ということが良くある業界なのですが、「吉野石膏のせっこうボードが届いてないよ」ってことは聞いたことがないかな。

 

野丁場が多い当社ですがその現場でも「こんなせっこうボードがありますよ」と提案することはやっていますよ。磁石が付くFeボードとか。ホームセンターでいくつかマグネットを買って行って実演したりしてね。

 

タイガー)学校や病院、オフィス以外の賃貸マンションなどでも、壁の様々な掲示物の場所を自在に変更できるので、Feボードをご提案、採用されるケースが増えております。是非、アイデアとしてお持ちください。

 

粕川社長)はい。あとは耐火壁の種類が非常に多いので、認定番号について現場でややこしくなることがありましてね。それを整理していただくと良いと思います。耐火壁はあとからやり直しが効かない、いの一番の工事ですからね。

 

タイガー)耐火壁の種類や認定番号については、その都度建築基準法やお客様のご要望に則り対応しておりますが、分かりにくいとのご指摘もいただくため、ただいま各工法の施工方法を統一、更に施工の省力化、管理のしやすい工法となるよう整理しております。

 

本日は長時間、お時間いただきありがとうございました。


  • <吉野石膏の担当営業と一緒に>

<インタビューを終えて>

 入社当時と較べて、同じ社員数で売り上げを伸ばしてきた粕川社長。


 「サッカーコーチの時も、この会社へ転職した時も、妻は何も言わずに支えてくれた。本当に感謝しかありません」と奥様のことを語られる粕川社長。


 会社の倉庫には先代である奥様のお父様が大切にされ、今も現役コンディションを保つベンツが置かれていました。


 

 「これは今に続く様々なものの原点のようなもので、ウチの宝です。手放しちゃいけないものなんですよ」

 

 「この豊かな時間がどうぞ末長く続きますように」と願うタイガーくんでありました。

  • <想いが詰まる社宝のベンツ>

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