吉野石膏株式会社


株式会社三建 様

HOME  ⁄  タイガーくんの吉野愛をたずねて インタビュー  ⁄  株式会社三建 様

第二十三回 株式会社三建 様

永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?

企業プロフィール

会社名 : 株式会社三建 様

住所 : 千葉県千葉市若葉区加曾利町932‐4

代表者 : 代表取締役社長 常陸 和哉 様

会社設立日:2000年(平成12年)9月1日

事業内容 : 軽量鉄骨天井壁下地組工事 ボード工事

URL : http://www.sannken.jp/

第23回のお客様は、千葉県千葉市にある

株式会社三建 代表取締役社長の常陸和哉さんです。


永年お勤めになった会社でのご苦労話、そして一念発起、起業された時のお話・・・。

2時間にも及ぶインタビューでしたが、あっという間に時間が過ぎて行きました。

  • 常陸社長)実はインタビューを受けるのは初めてなんですよ。けど吉野石膏さんからの頼みじゃ断れない。他のところの頼みじゃ、やらないですよ(笑)。


     さて、何から話しましょうか?私ね、常陸って名前から茨城出身と聞かれることが多いのですが、実は北海道なんです。元々のルーツは滋賀県なんですが、祖父の時代、大正時代に、祖父が滋賀から北海道に移り住んだんですね。だから私は北海道生まれ、北海道育ちで、高校卒業まで札幌で暮らしました。大学は東京に進学し、4年間を過ごしました。そしていよいよ卒業が迫った時に心に決めたことは「北海道に帰ろうかなぁ」。つまり自分の中で就職先は「北海道」と限定していたんですね。


     ある日、帰省して母と就職の話をしていた時に、目の前に北海道新聞が置いてありましてね。その求人欄の中で「建設資材の総合商社」というキャッチフレーズに目が止まった会社があり、なんとなく引っかかるものがあって「あ、ここでいいかな」と電話をかけたんです。すると「すぐに面接に来てください」と言う。しかも面接地が東京なんですよ、北海道の会社なのに。で、仕方なく東京の虎ノ門にある支店まで出かけて行ったんですね。

 すると会社側に何やら知っている顔がいましてね。よく見ると高校の同級生だったんです。その時私は一浪していましたから、彼は昨年入社。顔を見合わせながら「お前、何しに来たんだ?」「お前こそ、ここで何してんだ?」とコントのような会話があった末に、入社が決まったのが札幌に本社がある大手の建材卸売商社です。


 ね、ここまでの話でお分かりのように小さいころから建材や建設に興味があったとか、何も無いんですよ。たまたま母と一緒に見た新聞で求人広告に目が留まり、面接に行くとたまたま知り合いもいて、ご縁がつながったからなんです。そこから始まり、この世界が生涯の仕事になるなんて、不思議なものですよね。

<「すぐに“はみ出す”んだよ、俺」>

タイガー)無事に就職された建材の総合商社。どんなサラリーマンだったのでしょうか?


常陸社長)昭和50年に入社して最初の配属は仙台支店。そこに半年~1年ぐらいいたのかな。そして青森支店に転勤になりました。ここがその後の人生を大きく変えた場所だったかもしれません。ここの上司でMさんという方がいてね。この方と二人でタッグ組んで本当にいろんなことに好き放題チャレンジしたんです。私は社会人としては終始異端児だったんだけど、その礎は間違いなくこの青森時代に培われましたね。見よう見まねでゼネコン工事に手を出したりしてね。そこにはバブルの絶頂期を含め昭和62年9月まで12年間もいました。


 その中で、昭和56年頃だったかな、私がいた会社が信用不安、つまり不良債権を掴まされちゃったいわゆる「ひっかかり」を受けちゃったんです。そうなると当然資金繰りに行き詰るわけで、てこ入れのため社長が他社からいらっしゃった方、F氏に変わりました。


 この事件の影響は大きくてね、私は青森にいたから、まだワンクッション経てからのような感じ方でしたが、札幌本社や東京支社の人たちは肌への当たりが違ったと思いますよ。商社からの材料の供給が止まったり、給料遅配なんかも当たり前にありましたからね。


 F社長の辣腕で会社が持ち直しを見せてきた昭和62年9月に、私は千葉支店に転勤になりました。この支店だけで当時年商40億弱もあった大きな支店です。そこには卸業をやる営業1課と、ビルダー相手に直需的な仕事をする営業2課の2つの課があったんですが、F社長から下った命令は「お前は新設する3課の課長をやれ」。私はこの2つ以外の仕事は見当もつかず「一体、何をやったら良いのですか?」とお聞きすると、F社長は「好きにやってください」と答えられました(笑)。


 当時、この会社はこのF社長のトップダウンでしたから、決定も早いし、現場からの状況もすぐに届けられる。そこで「この会社でやっていない、ゼネコン工事をやるか!」と決め、動き出したんです。建築の技術的な専門知識に疎い私ですが、青森時代に少しだけやって勘所があった分野の本格始動です。性格的にも商品を仕入れてお売りする、例えば吉野さんに「7山頼む!」と電話してそれを売る商社的な仕事よりは「一工夫」する方が、大変は大変だけど性に合って楽しかったし、何よりも「責任取る代わりに好きにやらせてくれ!」という性分ですから。人間、何とかしようと思えば、何とかなるんです(笑)!


 ここからは見よう見まねで、現場に行き職人の仕事をずっと見続けていたり、図面の見方を覚えたり、それこそ吉野石膏のせっこうボードを張るところを初めて見たりしました。内装だけでなく、外壁工事もやったんですよ。私が38歳ぐらいの時に企画して、別会社も作って、自分も取締役に収まってね(笑)。ゼネコン仕事で一番大変なのは人繰りでした。こちらに職人の知り合いなんて全くいないですからね。最初は青森や北海道から職人を呼んでいました。中には今でも千葉に居ついて仕事をしている人がいますよ。


 しかし勝手に色々やりましたね。職人に働いてもらうためには待遇が必要でしょ?だから必要とあらば会社に断りなくお金使っちゃったりしてね。こんなの商社という組織ではありえないことなんです。工事関係の会計報告なんて、商習慣が違うから社内で理解してもらえないんですよ。こんなところからも益々異端児扱いされるようになりました。


 しかし、色々と目をかけていただき、ご自身と私は被るところもあったのでしょうか、全てお許しくださったF社長には、商売の本質や決断する際の基準などを、真横で勉強させてもらいました。この経験がその後の私の生き方に大きく影響を与えたことは間違いなく、すでにお亡くなりになられましたがF社長は間違いなく恩人の一人であると、今でも感謝しています。

タイガー)そんな会社をお辞めになり、起業されることになりました。きっかけを教えてください。


常陸社長)千葉支店の営業3課と、外壁工事の別会社の取締役を兼務しながら5年後に横浜支店にも籍を置かれて、そこでもゼネコン仕事を立ち上げたり、今度は大宮に営業所を出したりしましてね(笑)。そのうちさすがに千葉も見るのは無理だと外され、横浜の専従ながら大宮の面倒も見る。常に駆けずり回っていましたね。


 しかし、そうしているうちに不況がやってきた。1998年頃ですね。そうなると思わぬところで大きな赤字を出したりしてしまう。それ以外にも積年の疲れのようなものが出てきて会社も「じゃ、ちょっと休め」となり、現場から外される辞令が出た。当時49歳。行った先は部下もいなければ数字も持たない場所です。それに納得できなかったんでしょうね、逆にストレスが溜まってしまって自身のエネルギーが減っていくんです。この年齢の今やり続けないと、再始動なんてできないだろうと。そこで会社を辞めて起業しようと思ったんです。

<三建についてお伺いします>

  • <昭和55年から続く会報>

  • 常陸社長)辞めてから4か月ぐらいの準備期間を経て、仲間を誘い、3名でこの会社を立ち上げました。何とかなるだろうぐらいの感覚でね。けど最初は苦労しましたよ。銀行が500万円のお金も貸してくれないんだから。途中1億1500万円引っかかったこともあったしね。その時は仕入れ先、関係者を全員、全部で15人集めて「公的資金やセーフティーネットなどを活用し、お金は調達できました。」とアナウンスした。噂だけ先行で流れるのは嫌だし、情報に温度差が生じるのも嫌だからね。その時に事態を収束させた経験を活かして、商社には今でも現金払いを続けています。あとは社員を育てることだね、商売の設計図が書ける人を。番頭さんは一朝一夕には育たないんですよ。うちには9人の現場を取り仕切る監督がいますが本当に頼りにしています。


     まぁ、それ以外はお陰様でなんとか順調にやっていますよ。私は趣味っていうのも無くて、しいて上げたら東京で1回、北海道で1回、都合年に2回やっている北海道の高校の同窓会に顔を出すのが楽しみで、あとは仕事しているのが楽しいね。同窓会はいいよ、「札幌西高20期 三角山の会」っていうんだけど、本当に僕らの同期だけすごく仲が良くってね。

<「吉野石膏」についてお聞きします>

常陸社長)吉野石膏っていい会社ですよ。一般の人は知らないかもしれないけどオーナー企業だからこそ生まれるアットホームな感じのね。非上場っていうのもいい作用しているのかもしれない。吉野石膏はその気になったらいくらでも上場できるし、上場したらとんでもない値段が付く優良企業だからね。少なくとも親が建築関係に勤めていたら子どもには「おい、吉野石膏はいい会社だぞ」って言うに決まっているから。


 吉野の出荷状況とか稼働率は、この建築業界のバロメーターなんですよ。吉野の数字は本当に大事な、間違いのない指標なんです。吉野石膏さんとは青森時代から長い付き合いだなぁ。昭和50年っていう当時は吉野石膏には青森営業所が無くてね。岩手の仙台支店盛岡営業所からだったなぁ。それから2~3年して青森出張所ができてね。みんな家族ぐるみの付き合いをしました。しょっちゅう麻雀もしていましたよ。青森営業所は倉庫の片隅に事務所を囲って作ってね。事務所付き倉庫、みたいなところでした。吉野の商品としては耐火遮音間仕切り壁あたりが思い出深いかな(21mmのせっこうボードができた時代)。他社に比べて扱いやすいからね。ゼネコンさんにも色々ご提案もしていますしね。


タイガー)三建さんでは、マンションやホテルの現場でA2000・WⅠやハイパーウォールZシリーズなど、多くの耐火遮音壁を施工していただきました。特に西新宿の現場では大変なご苦労をおかけしながらかなりの㎡数のA2000・WⅠを施工していただきました。これ以外にも学校や病院、オフィスではS12シリーズやSウォールシリーズなどの耐火壁、天井はジプトーンライトをはじめ、ソーラトンやスクエアトーンDなど、今まで大変お世話になっております。ご評価いただいております吉野の企業風土はこれからも大切にして参ります。引き続きどうぞよろしくお願い致します。本日はありがとうございました。

  • <吉野石膏の担当者と>

<インタビューを終えて>

大切にしている言葉は?とお聞きすると「実るほど首を垂れる稲穂かな」と答えられた常陸社長。


「人間、へこたれる時が来るよ、それまではね、職人さんに感謝し、お客様に感謝し、社員に感謝して、頑張りますよ」。


これからも末長い商売繁盛をお祈りしております。

一覧へ戻る