株式会社 タッセイ 様
第二十八回 株式会社 タッセイ 様
永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?
企業プロフィール
会社名 : 株式会社 タッセイ 様
住所 : 福井県福井市河増町30-20
代表者 : 代表取締役社長 田中 陽介 様
会社設立日:1949年(昭和24年)7月
事業内容 : 建材・住設機器卸、ビル・建物の内装仕上工事
第28回のお客様は、福井県福井市にある
株式会社 タッセイ 代表取締役社長の田中陽介さんです。
このシリーズ、過去最多クラスの資料をご用意いただいた田中社長。それもそのはず、「演出」には精通されている方でした!
<まずは学生時代のお話からお伺いします>
タイガー)いただいた資料に「俳優」とありまして、今日は興味津々でお邪魔いたしました。
田中社長)では、高校3年生ぐらいまで遡ってお話をしますね(笑)。私、生まれも育ちも地元・福井でして、若いころから都会に出たくて仕方なかったんです。小学校は家の目の前、中学校は歩いて5分、高校も3~4分、という狭いエリアが活動圏(笑)、おまけに福井大学も家の目の前だったものですから「絶対に地元を離れて、都会の東京に行くんだ」という思いが加速していました。それでもいつかは家業を継ぐのだろうと将来を見据えて経営学部を中心に東京の大学を受験をした結果、キャンパスがオシャレな所在地にある青山学院大学を選んだんです。
この「いつかは家業」の刷り込みですが、うちは二人兄妹で男は私だけですし、長男として生まれてからずっと、特に祖母がそれこそ念仏のように毎日耳元でささやき続けながら私を育てた中で培われたのでしょうね(笑)。まぁ、私も既定路線に乗ることを疑っていませんでしたし。
大学に入ってすぐの4月。東京デビューで舞い上がっている私は「都会でしか見られないもの」に興味を持ち、下北沢のライブハウスや劇場、原宿や代官山での買い物などに呆けていました。そんなある日、当時のタウン情報誌で、ある舞台公演が目に留まりましてね。・・・しかも当日券が手に入るという。喜び勇んで渋谷の文化村シアター・コクーンに出掛け、深津絵里さん主演、野田秀樹さん演出の舞台を見たのですが、・・・これが本当に衝撃的だったんです。「こんなにすごい世界があるのか!」と。その翌日には青学の演劇研究会の戸を叩いていました。
そこからは勉強そっちのけで、芝居の稽古ばかりの毎日です。当時4年生だった先輩が作・演出を手掛ける劇団を旗揚げして、この方が部を超えた活躍をされていたので、それに感化された私は、2年生になると色々な劇団の出演者オーディションを受けたり、ワークショップにいったりと、活動の幅を広げていきました。
大学3年生の時、父に呼ばれ業界の修行のため、父もかつて勤めていた大手電機・建材メーカーの面接を受けるように言われます。でも本心ではこのまま役者を続けていきたい、一旦、面接は受けるけど、自分の思いも分かってほしいと伝えました。ところが、忘れていた大学4年の秋に「内定者懇談会のお知らせ」というのがポストに届いておりまして。それを見て「あれ?親父、私は大学卒業後も就職せずにバイトしながら役者をやっていきますよ」と父に話したところ「なんだと!」と激高されました。この時は父だけでなく、特に創業者である祖父の怒りは相当なものだったと、あとで母から聞きました。そこから実家とは少し距離のある、役者生活が始まったんです。
<一度しかない人生。やりたいようにやらなくてどうするんだ!>
<俳優時代の田中社長>
大学を卒業してからは芸能プロダクションに所属し、NHKの朝ドラ出演で世の中が大注目している時の宮崎あおいさんとカップル役を演じる「NTT ドコモのコマーシャル」に出演が決まったりしましてね。他にも仮面ライダーや、金スマの再現VTRなど、まさにこの仕事でやっていけると手ごたえを感じておりました。
そんな矢先、母から連絡があったんです。母は家族や親戚からの声と私の間に入ってくれて、ずっと何年も私をかばってくれていたんですね。そんな母に「もう私一人では止められない。頼むから福井に戻ってちょうだい」と泣かれましてね。どうしたもんかな、と初めてこの問題に向き合いました。自分がやりたい道を進み、楽しければ良いと思っていた生き方が、自分の家族にとっては辛いことになっていたんだな、と。
当時の私の生活はカツカツで、例えば新宿に出るのに片道210円、帰りの電車賃が無い中で歩いて帰ったり、バイトも転々の毎日ではありましたが、やっと俳優としてイケるかも?と手ごたえを感じていたタイミングでした。さて、どうしようか・・・。
そこから半年かけて悩みに悩んだ末に、これから家族が大事に続けている家業の為に生きよう!と、福井に帰る決意をしたんです。
<タッセイに戻られてからのことをお聞きします>
田中社長)私がタッセイに戻ったのは2007年2月、私が27歳の時です。とにかく建築の事は1からどころか0から覚えないといけない身ですから、さぁ、何から始めましょうかという状態です。最初は材料配達のトラックの助手席に乗る仕事から。しかし初めは建設業界特有の荒っぽさや言葉づかいに馴染めず、「あれ、これは選択を間違ったかも・・・」と不安な日々が続きました。「これは、やっていけるだろうか」と。
例えば先輩について仕事を覚えていく中、先輩と現場監督さんは上手にコミュニケーションをとっているのですが、私がやると同じようにやっているつもりなのに怒鳴られてばっかり。「あさイチ」と言われて先輩が10時に建材を届けてOKだったのに自分がやると「馬鹿野郎!大工の1時間の意味が分かってんのか!なぜ8時にもってこねえんだ!」と痛烈な怒りが飛んできて、もう意味がわからないという日々が続きました。ベテランの按排を理解せず、若造が形だけ真似をするとガツン!の繰り返しです。建材の販売は2年ぐらいやりましたが、その間はずっとそんな感じでしたね。
少し明るさが見えてきたのは建築の法律関係の変化に伴って、家の瑕疵保険とか、新しい補助金制度とか、全国の建材屋さんが集まる勉強会に出席をするようになった時です。他にやる人がいなくてそれを任されたんですね。そこからは営業企画室として新しいサービスの分野を担当するようになり、工務店の社長さんの下を、付け焼刃の知識ながら必死に語って歩いたところ、これが思いのほか話を聞いてもらえて、やっと自分の居場所がみつかったな、と手ごたえを感じたんです。
その全てのお目付け役に、今でも相談相手として慕っている中村秀美専務がいました。誰に聞いても最近は丸くなったと言うのですが、当時はまぁ、見た目がナニワ金融道みたいで怖かったんですよ(笑)。専務は東京でやり放題だったバカ息子を一人前にしないと、会社存続の危機と感じたのでしょう、愛あるムチを持って、箸の上げ下ろしから、酒の飲み方まで、まぁ、とにかく厳しくご指導いただきました。けどね、いつもそこには愛が透けて見えたんですね。だから喰らいついていけたのだと思います。
私が取締役経営企画室長になった際に「今日からはもう何も言わない。全て自分で考えろ。」と言われた時はジーンときましたね。いや、実際は今でもガンガン言われていますけど(笑)。・・・けど、本当に私を鍛えていただいたことに、心から感謝をしています。
タイガー)田中社長は何代目の社長になるのでしょうか?
田中社長)私で3代目です。祖父の田中正義が個人商店として今から74年前の1949年にベニア板1枚をリヤカーに載せて売るところからスタートしたんですね。祖父も父も同じ家に一緒に暮らす4世帯同居でしたから、今振り返ってもとても素晴らしい時間だったのですが、事あるごとに酒を酌み交わしながら会社の歴史や苦労話を聞いてまいりました。そういえば先ほどの専務ですが、18歳の時から45年勤務、田中家3代とご一緒していただいたのは中村専務だけですね。
タイガー)では、3代目・田中社長が行っている「タッセイでの取り組み」をお聞かせください。
田中社長)社員全員が、会社が何を目指しているのか明確に理解してもらえるように経営方針発表会での内容を毎年手帳「TASSAY QUEST」にして配っています。特筆できるのはこれには全グループ社員の顔写真付き名簿が載っていまして、昇進や新人紹介、営業の売り上げ達成率、社長賞など全部、個人に紐づいて紹介していますので、仲間の会社での活躍が一目で分かるんですね。これは結束力を高めるのに大いに役立っていると考えています。
あとは、採用の問題です。タッセイだけでなく建設業界は若い人から敬遠されがちなことに愕然として、何とかイメージを変えようと思ったんですね。HPやパンフレットのデザイン、“「建てる」を応援する会社。”というキャッチフレーズなど、全てです。こちらがそのパンフレットですが、我ながらこの戦略は上手くできたと思っています。他にもテレビCMを打つなど徹底したイメージ作戦を行い、翌年初めてマイナビに掲載してもらったところ、500人以上の学生さんがエントリーしてくれて、そのうち100人超が1次試験を受けてくれました。B to Bの分かりづらい企業でも、やり方次第でこんなに変わる。つまり「見せ方ひとつで、こんなに変わるのか」ということを思い知ったんですね。そこから毎年、大卒の新入社員が採れるようになりました。
また同時期、現場でものづくりを行う職人さんのチームづくりを意識して、正社員の職人特殊部隊TAT(Tassay Artisan Team)を結成しました。これも地道に地元の高校巡りをした成果だと思っているのですが、現在7期生で総勢50名近い若い仲間がイキイキと活躍してくれています。来年から女性も加わり、益々勢いを感じますね。
定着に関して、これはポイントかな、と思うのですが、新人を一人ぼっちで50歳を超える怖そうな親方の下に付けたら、そりゃ辞めちゃいますよね。ですので「部活」の感じがでるよう意識しました。直上は2年目、3年目。監督のポジションにベテラン職長。そこには同期が何人もいる。悩みや辛さを共有することが定着率を上げていくコツのような気がしています。このシステムは一定の成果につながっていて、国交省や全国の同業者の方々など多くの方が視察に見えています。
他にも職人の活躍にフューチャーした映画「くもりのち晴れ」を製作するなど(※Amazon Primeにて配信中)、ものを作ってくれる人がいないと成り立たないこの仕事のイメージを変える挑戦に勤しんでいます。この映画も高校生の採用には起爆剤として大きく寄与したと思います。何といっても上映した翌年は高校生が10人も入りましたからね。
いずれにしても職人さんに対するリスペクトは何をおいても一番大切にしたいことで、半世紀以上にわたりわが社を支えてくれている「タッセイ職友会」の活性化も併せて、これからも職人さんとの関係性を大事にしたいと考えています。
<TASSAY QUEST>
<「吉野石膏」についてお聞きします>
田中社長)いやぁ、どうやって語りましょう?吉野石膏をめっちゃ愛してはいるんですが(笑)。何度も言いますが、私が一番大事にしているのは実際にモノを作っている現場の職人さんです。彼らが吉野石膏のボードを実際に運んで、切って、張って、魅力的な空間に仕上げているんですから。
そう言えば映画を作った時も現場には必ずある商品ですから、吉野石膏のタイガーマークはばっちり映っていましたしね(笑)。吉野さんにタイアップしてもらえば良かったかな?(笑)
私は27歳でタッセイに戻るまでは吉野さんの商品に触れたことも意識したことも無かったぐらいの建築素人でしたが、入社してすぐ吉野石膏さんとの接点が生まれます。工務店さんに材料を販売する仕事ですから扱う商品リストには必ずせっこうボードがあるわけです。最初は倉庫番と材料の配達です。私がタイガーボードを2枚しか持てないところをみんなは4枚持っている。「どうなってんだこの人たちの腕力は」と感心していました。しかも扱いに繊細さが求められる商品ですからね。多くの現場で、施主様の一世一代の夢が形になっていくところを見ましたが、その夢の必需品としてこの吉野のせっこうボードがある。壁紙の向こう側で主張はしてきませんが、せっこうボードは本当に重要なパーツなんだよ、と今では若い社員に口酸っぱく言うほど、その重要性は沁みています。
現在、職人さんが高齢化しているでしょ?特に天井を張るのは大変なんです。もっと軽くなるといいですね。そして吉野さんには商品を売るだけでなく、ベテランが減っていく中で熟練の技術をロボットやデジタル技術で残していけるような、そんな開発にもかかわって欲しいと思っています。
タイガー)ご指摘、ご提案ありがとうございます。軽い天井材としては「ジプトーン・ウルトラライト」という25%も軽くなった新商品もご好評いただいております。そちらも是非ご検討くださいませ。
<インタビューを終えて>
<創業者・祖父の直筆「疾風に勁草を知る」>
福井・石川でトップクラスの建材卸・内装工事会社であるタッセイ。
社長の若さとバイタリティーを土台に、3代脈々と続く、時代の変化に敏感で、それを味方につけ、新しいものをプロデュースしていく会社の力に感服いたしました。
若者が集まるのには理由があります。業界全体でもモデルケースになるタッセイの取り組みを大いに勉強させていただきました!
これからも益々のご繁栄と、そして新しい何かをやってしまうエネルギーに業界全体で注目させてください!
本日は楽しいインタビューをありがとうございました!