吉野石膏株式会社


株式会社伊藤木材建設 様

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第二十九回 株式会社伊藤木材建設 様

永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?

企業プロフィール

会社名 : 株式会社伊藤木材建設 様

住所 : 埼玉県日高市北平沢646

代表者 : 代表取締役 伊藤 文男 様

会社設立日:1979年(昭和54年)11月1日

事業内容 : 建築業

URL : https://www.ito-mokuzaikensetsu.com/

第29回のお客様は、埼玉県日高市にある

株式会社 伊藤木材建設 代表取締役社長の伊藤文男さんと専務取締役の伊藤真一さんです。


社長)俺も座るの?特に話すことは無いよ。

専務)いや、あるんだよ。会社の歴史の話とかね・・・。

 

という大変仲の良い親子感いっぱいに、笑顔で始まったインタビュー。

ところが・・・・、ご苦労話をきっかけに雰囲気が大展開、涙、涙のインタビューとなりました。

<会社の歴史からお伺いいたします>

伊藤社長)会社を設立したのは私の親です。私が3歳ぐらいの時に個人商店の伊藤材木店としてスタートし、木材販売だけでなく、建物も建てていました。当時は檜や杉などの木を山ごと買って、その山に入り、それを伐り出す作業からですからね。私もチェーンソーすらない昭和38年ぐらい、中学生ぐらいの時からその作業を手伝っていました。斧で受け口をつくり、のこぎりで切りながらくさびを入れて、木を倒していく。山で伐り出した木は程よいサイズにその場で切ってその場で乾かし、山から降ろしてからは製材所で整え、材料にしていました。


 昔は運搬用の機械も不十分でほとんどが担ぎですから、そりゃ大変だったよね。丸太に棒を縛り付けて4人がかりで担いだり、山から車が入れる場所まで木を出すのにソリを使ったりしていましたよ。親がやっているから、自分がこの仕事を続けていくのは当たり前というか、他を考えることなんていうのは一切なかったよね。ただ一回だけ、大学を卒業してね、当時小僧と呼ばれるような見習いにいったことがあったんだけど、その時だけは「あれ、他の職場に勤めるってこともあるのかな」って、後にも先にもその一回だけ思いましたよ。他の学生仲間は色々な仕事に就いていたからね。


伊藤専務)え、そんなの初めて聞きました。やっぱりインタビューとか受けるのっていいですね(笑)


伊藤社長)うん、ずっと中学、高校と手伝っていたからね。だから他を考えることすらなかったね。当時は山をやっている人、建物の基礎の仕事、大工さんなど大勢の人がウチにいてね、私は事務から現場仕事まで全てやっていましたよ。この仕事は山に入っちゃいけない時期があったり、木を切るにしてもタイミングがあって、悪い時期に切ると乾燥させている木に虫が湧いちゃう。それぞれ仕事によって閑忙があるから、手の足りないところを手伝う、そんな毎日でしたね。木を伐り出すのって倒れるわけだから危ない仕事でしょ。それに加えてとにかく暑いし重いから辛い仕事でしたね。夏なんか当時は水筒なんか無いから、一升瓶に沢から汲んだ水を入れて持って上がっていましたからね。


 私が28歳の1979年に会社組織になったんですが、そのころは山を専門でやっている人も減って、建築の仕事が主になっていきました。人件費が高くなって、材木も市場で買ってきたものの方が安くなっちゃったんだよね。山をやっている人たちには基礎工事の方に回ってもらい、だんだん今の会社のスタイルになっていったのだと思います。

<続いて伊藤専務にお聞きします>

伊藤専務)では私は、「中学時代」まで遡ってお話します(笑)。中学時代はテニスに夢中でした。その頃は普通に家業を継いでいくのだろうな、やらなきゃいけないのだろうな、と漠然と考えておりましたが、一方で親の敷いたレールに安易に乗りたくないとの反骨心もありました。本音を言えば「未来像が決して明るくは見えていなかった」、という理由もありました。


 では、そんな自分に何ができるのか?答えは簡単で「何が楽しいのか」という考えから導きだされた「プロテニスプレーヤー」でした。好きなことが仕事になったら最高だと考えた私は中学卒業と同時に渡米し、フロリダ州のテニススクールに入り、毎日テニス漬けの生活が始まりました。


タイガー)お父様はその時、どう思われていたんですか?


伊藤社長)うん、好きなことをやるのはいいんじゃないかと考えて、応援していましたよ。


伊藤専務)私は「テニスが好き」→「プロになりたい」→「アメリカで修業が近道」、という思い一直線でして。「俺、テニスのプロになるからアメリカに行く」って親に脅すように言いましたね。まぁ、そんな無鉄砲をOKする親も親ですが(笑)。僕はそもそも小学校ぐらいから学校が好きじゃなくて、すぐに飽きちゃうといいますか、自分からやりたいと思わないとやらない、極端な性格でした。僕は何をやるにも一直線なんです。とはいえ、日本でのテニスの実績なんて何一つなくて、今振り返ってもちょっとぶっ飛んだ考えでしたね。


 アメリカではやりたかったテニスを、全員がプロを目指す集団の中で2年間、みっちりやりました。技術的には僕は最底辺のレベルでしたが、日本への連絡もほとんどせずにこちらの世界に没頭していましたね。その後帰国し、18歳からは生活のためにコーチ業をしながら、日本のテニスツアーを回る日々を送りました。親には経済的にもそれ以外にもサポートをしてもらいましたね。


伊藤社長)その頃ね、彼はまだ免許持っていなかったんで、俺が遠征先まで運転して連れて行ったりしていたんですよ。


伊藤専務)いやぁ・・・、今考えると父は仕事をしながらですから、大変な事でしたよね(笑)。この生活が25歳まで続いたわけです。勤めていたテニススクールでは、私はまずまずの待遇で、生活が成り立つレベルでした。しかしそのころ、妻となる女性との出会いがありまして、将来のことをもっと具体的に考えるようになったんですね。「テニスのコーチとは50歳、60歳までできる仕事なのだろうか」と・・・。故障したら終わりですしね。


 そんな時に社長に家業について相談をしたんです。私は3人兄弟の長男で、どこか常に頭で考えてもいたので。・・・そしたら社長が、まるで宣告をするように、こう言ったんです。「・・・共倒れになるぞ。今、会社の状況は良くない。もしかしたら潰れてしまう可能性もある。仕事も減ってきているし、借金もある。本当にいつ潰れるかわからん」。その言葉を聞いて絶句し、一瞬だけ逡巡しました。しかし、自分には世話になった親への恩を返したいという強い気持ちがありましたし、何よりも実家が無くなるのは嫌だと考えました。「よし、僕なら何とかできるんじゃないか。親に恩返しもするし、家族も守る」。厳しい状態の家業を継ぐことに、迷いはありませんでした。

  • 伊藤社長)その時に「もし、潰れるなら、後を継いで自分の手で潰したい」って言ったんですよ。・・・それを聞いてね、「よし、じゃぁやってみろ」と、二人で一緒にやることになりました。

     

    伊藤専務)・・・その頃ね、全部の資産が担保に入っていて、・・・母屋も、事務所も、このままだと全部無くなっちゃうし、その先間違いなく、両親は生活保護を受けながらのつましい暮らしを強いられる・・・、その姿が想像できたんですよ。・・・けど、現実は厳しく、立ち直る見込み、糸口すらない状況でね、・・・本当に絶望のどん底でした。社長は色々な人に支えられながら仕事をしてきましたが、本当に当時は状況が悪く、社長の年収なんてたった100万円、年収ですよ。そんな辛い時期でした。

伊藤専務)僕は思ったんです。これだけの大きな敷地に母屋、大きな事務所、工場、こんなに構えているのに、この状況は寂しい、寂しいなって。おじいちゃんから続いているものを無くしたくないっていう、ただその一心でしたね。自分がやるしか無いなって。腹を決めて。そこから勝負が始まってわけです。


 しかし状況が状況です。会社の知名度だって低いですし、僕自身もテニスしかやってこなかったわけですから、会社としても何から手を付けて良いのか分からない。社長から言われるがままに触ったことのないパソコンを使ってチラシを作ったり、飛び込み営業をしたり、「お前は何も分かっていないから、建築士の資格を取れ」と言われ、1年で2級建築士の資格を取ったりしても、結果は全くでない。そんな失意の毎日が5年ぐらい続きました。まさに綱渡りレベルで食いつなぐ日々です。

 

伊藤社長)この1か月の間に、仕事が来なかったら潰れる、っていうのが何回もあったよな。

 

伊藤専務)はい。社長の知り合いから私のテニス仲間まで、いやもう奇跡的な、ご先祖様が助けてくれたのか、と思うようなことが何度もありました。・・・しかしですね、ずっとこの綱渡りの間でも、給料は月15万円ですよ。根本的に何かを変えないといけないじゃないですか。そこで、全国あちこちの勉強会を訪ね歩いたんです。


 その中で住宅の営業コンサルであるN社を知り「もうこれをやるしかないな」と思ったんですね。お金を出してでもノウハウを学ばないとこのままじり貧、もう背水の陣です。払ったお金は500万円。年収180万円というヤバい状況なのにですよ(笑)。他にもコンサル業者はあったのですが、ここだけ5年ローン払いが可能だったので選んだんですけどね(笑)。このままじっとしているのではなく、潰れるにしても攻めるだけ攻めて潰したいじゃないですか。


 そこからはここで学んだノウハウを全部きっちりやり続ける日々が始まりました。チラシを作り、ポスティングし、公民館を借りて、教えられた通りに開催した資金セミナーにみえたお客様が偶然にも妻の同級生という運にも恵まれ、その方から受注をいただいたり、市民祭りで私たちが楽しんでいると「会社の雰囲気が良い」と、市役所の職員が発注してくれたり・・・など、つながっていったんですね。


 お陰様で今では売上を日々上方修正するようになり、新卒も採れるようになりました。そこに秘訣は何も無いんです。皆さんの支えの中で、コツコツとならなければならないことをさぼらずにやり続けた、本当にそれだけなんですよ。一方で家事に仕事にと、妻には大変な負担を強いてしまっている、それには大変感謝しているし、気がかりなんですけどね。

 

タイガー)大変なご苦労の末、今があるのですね。本当にご成功おめでとうございます。最近では地域貢献も沢山なさっているとお聞きしました。

 

伊藤専務)はい、地元日高市との接点を積極的に持とうとしています。子どもが描いた「未来のおうち」を実際に当社の住宅「Rinie」を建てている現場の足場幕でご披露する「ひだかアートプロジェクト」や、当社の敷地を使った「646マーケット」というマルシェを開催するなどやっています。多くの方の笑顔に囲まれるのは楽しい時間ですね。

  • <1000人のお客様がご来場された646マーケット>

<「吉野石膏」についてお聞きします>

伊藤社長)うちと吉野石膏さんとは遡れないぐらい前からのお付き合いですよ。家をつくるのにはせっこうボードを必ず使いますからね。最初はクロスの下地は4mmベニア板だったんですよ。それがタイガーボードになって・・・そんな時代からだからね。今まで何枚担いだかなんて覚えていないぐらいだなぁ。せっこうボードは重いけど、今の床のスーパーハードなんかはもっと重いからね。俺はもう、よう持たないですよ。けど、遮音性は全然違うね。とてもいいですよ。

 

伊藤専務)今、福祉施設でテナントを工事していて、そのような場所ではスーパーハードのような遮音性の高さは本当に必要なんだと思いますよ。

 

伊藤社長)あとは外壁のEXボードやハイクリンボードも使っていますね。

 

伊藤専務)ハイクリンボードはうちの標準仕様ですから。うちが建てる家の壁は全部ピンク色です。お施主様にこのハイクリンボードというピンクの壁は、シックハウス対策として有害物質を吸収・分解する働きがあるんですよ、と説明すると、その意味をご理解いただきすごく喜ばれています。これから吉野石膏さんへの要望としては、ビスや画鋲がしっかり止まるせっこうボードを作って欲しいですね。

 

タイガー)いつもご愛顧いただきありがとうございます。EXシリーズにはEXプログレという、より軽くなり施工性が上がった新商品が発売されました。是非そちらもご検討ください。

  • <吉野石膏の担当者と>

<インタビューを終えて>

先代、そして伊藤社長が山に入って木を伐り出すところから始まり、幾多の危機に面した中での社長、専務のご苦労の積み重ねが、今の伊藤木材建設の礎となっているような気がします。まるで全てがひとつの物語としてつながっているようです。

 

「苦難は幸福の門」「やってやってやりぬく」

 

成功を信じ、全てに感謝の心を持ち、ひとつひとつを地道に積み重ねた結果、先祖代々のものをしっかり守ることができました。

何十年先も快適に住み続けることができるRinieの家。これからも人の輪がたくさん広がり、Rinieタウンができますように!

  • <「いつか父に車を買う」という、小学校の頃の誓いが実現>

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