株式会社渡清 様
第三十八回 株式会社渡清 様
永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?
企業プロフィール
会社名 : 株式会社渡清 様
住所 : 郡山市喜久田町卸1-61-1
代表者 : 代表取締役社長 佐藤善彦 様
会社設立日:1984年(昭和59年)7月2日
事業内容 : 内装工事
URL : https://www.watasei.com/
第38回のお客様は、福島県郡山市にある
株式会社 渡清 代表取締役社長の佐藤善彦さんです。
全室協の常任理事、東北支部会長の重責に加え、吉野石膏・東北耐遮会会長もお引き受けいただいている佐藤社長。
この4月には国から業務精励を称えられ、名誉ある黄綬褒章を受けられました。
<この度は誠におめでとうございます!>
タイガー)この度の黄綬褒章の受賞、誠におめでとうございました。それにしても御社内の至る所に大変多くのお祝いの胡蝶蘭が飾られており、その数に圧倒されました。
佐藤社長)ありがとうございます。このインタビューを受けることになったので、予め吉野石膏のホームページ(※タイガーくんの“吉野愛”をたずねて)を見ておいたのですが、そこで登場している方からのお花も飾ってありましたでしょ?昨日もそのうちの数人と一緒だったので「明日、例のインタビューなんだよ」と話が弾みましたからね。このインタビューを見ている人は多いので、もっとホームページの目立つ場所にバナーを移した方が良いと思いますよ!
タイガー)ありがとうございます。・・・では、早速始めさせていただきますが、まずはこの「渡清」という会社のことからお聞かせいただけますか?
佐藤社長)はい、渡清は軽鉄下地、ボード、クロス、床、リフォームなどの内装工事が7割、建材販売、住宅設備、外壁工事が3割、年商22億円の会社です。「渡清です」って言うと、よく「え、割烹ですか?」って聞かれるんですよ(笑)。
この名前はこの会社の創業者「渡辺清一郎」の名前から取ったんですね。この会社の始めは明治20年、清一郎さんのおじいさんである清五郎さんが建てた「渡辺材木店」でして、その後、色々なことを経て、昭和27年ごろには東京の木場で材木の仕事をしていたんですね。ちょうど時代は新建材でして、そこで吉野石膏さんのタイガーボードに出会いました。そこで「これは時代に先駆けた商品だ!」と新建材を扱う「渡清建材店」を立ち上げ、そこから須賀川に戻り「渡清建材店」として新たなスタートを切ったんですね。そこからしばらくはゼネコンなどに建材を売る仕事をしたのですが、今度は「自社で内装工事もやろう」という流れになり、東京から職人さんを呼んで内装工事の仕事も始めました。すると東京の職人さんたちがこの地に根付くようになって、この地に今の渡清の礎ができたという流れです。
考えてみると私の先代たちが須藤永次さん、恒雄さん時代に吉野石膏さんのタイガーボードに出会わなければ、建材店はやっていなかったということになります。湿式から乾式に変わっていく中で、まさにいつも先駆けとして行動を起こす会社だったのが、良い出逢いを招いて今につながっているのでしょうね。
<佐藤社長ご自身のことをお聞きいたします>
佐藤社長)私はアーケードが特徴的な、柳町と呼ばれていた郡山の駅前で、酒販店の長男として生まれました。中学3年生の時に、大学生の従弟が当時の流行りであった「自動車の合宿免許」のために東京から郡山に来ることがあり、そこでたまたま「受験」の話になったんです。
その年の福島県立高校の受験日は3月16日。一方で都立は2月、私立は1月末に行われると知り、従弟は私に「力試しにどこか受けてみたらどう?」と勧めてくれたんですね。当時の私は早慶の付属高校があることも知らなかったのですが、「では、早稲田高等学院を受けます」と決め、一層熱が入って受験勉強を進め、試験日を迎えました。すると、たまたま中学の朝自習で習った松尾芭蕉や与謝野蕪村の俳句の問題が、どんぴしゃで出題されるなどの幸いもあり、首尾よく早稲田高等学院への合格を果たしたんです。今振り返るとここが人生の転機、だったのでしょうね。
高校生ながら親元を離れ、東京で暮らすことになった私は、目が届くようにと調布の深大寺にある伯母の家に住むことになりました。通学は調布からバスで三鷹、そこから総武線で西荻窪、そこからまたバスで上石神井とそれは大変で、「都会暮らしだと思っていたのに、なんでこんなに田舎なんだ!」と憤っていた思い出があります。
高校時代は子どもの頃から続けていた剣道部に入り、朝練などもある厳しい時間を過ごしました。
大学では政経学部に進みました。自分の中で将来を考えた時に「長男ではあるが、酒屋は継がないなぁ」という考えがあり、それ以上に「外国に行きたい、外国で働きたい」という夢を持っていたんですね。
私が就活を行ったのは1976年。当時は就職協定で4年生の10月に会社訪問解禁、11月に試験と遅かったんです。酒販店を営んでいた親は、就職を心配し大手の酒メーカーへの縁故入社を図ってくれ、内定も頂いたのですが、私は夢を持って商社を受け、日本の3大商社のうちふたつから内定を頂き、第一希望である三菱商事にお世話になることに致しました。三菱商事に決めた理由が「受付嬢が美人だった」というのは、ここでは内緒にしておきますが(笑)。
食品を希望していた三菱商事で配属された先は人事部でした。東京では3年ほど勤め、そこから名古屋の同じく人事部に転勤になりました。名古屋では採用、研修の仕事を担当したのですが、たまたま東京で一緒に働いていた2人の上司の方々とご一緒になりまして、気心が通じていたこともあり、3人の好みで「採用5か条」なるものを作成するなど腕を揮っていましたね。それに則って採用を行ったり、JALの客室訓練の方をお招きして接遇の研修を行ったりしたなどの、楽しい思い出があります。ここでは本当に良い方が採れましてね、1/3ぐらいが社内結婚するなど、なかなかの人気者揃いでした。
4 年 8 カ月の名古屋生活から東京に戻り、今度は人事の中で新しい厚生施設建設のサブリーダーになりました。 1985 年の事なのですがこれは大変なもので、このプロジェクトの予算規模がなんと 100 億円なんですよ!赤坂で地上げから手掛けようか、とか、銀座で更地を買おうか、とか、軽井沢でテニスコート付きの保養所を建てようかなど、とにかく大きな話でした。そんな仕事に関わり2年ほど過ぎた時に、ニューヨークに転勤になったんです。
87年10月~91年10月の丸4年、ニューヨークでは社長秘書のような業務と、今で言うホテル選びの比較サイトのような、海外からニューヨークに来た方が便利にホテルを選べる斡旋業的なニュービジネスを立ち上げ、収益を上げていました。当時はパソコンが無いですからやりとりはFAXでして、お客様はそれをホテルのフロントに持っていけば英語ができなくてもチェックインができると好評だったんですね。
商社マンとして楽しく仕事をしていた私ですが、一方で、私の奥さんはこの渡清の御嬢さんで、後継ぎがいないで困っているという事情を聞いておりましたし、妻が先に帰国してしまい単身赴任が寂しくなったこともありましたので、一大決心をして商社を辞め帰国、91年11月に全く畑違いのこの渡清に入社することになりました。・・・もう33年も前なんですね。しかし前職は商社マンとは言え、軽井沢のプロジェクトや、ニューヨークでのオフィス改良などこの仕事を垣間見るような経験と、人事や総務的な人や物、また、世の中を広く見る経験を積んでいましたので、社長業としての勘所は自然と培われていたような気がします。
<社長として大事にされていること>
佐藤社長)こちらに移ってから社長になるまでの12年の間には、就業規則の見直しや、組織づくり、本社機能のまとめ、人材の育成、新卒を含む様々な研修制度、給与体系の見直し、外国人労働者の問題など多方面と向き合い、総務部長、取締役、専務、副社長を経て、今から21年前の2003年12月に渡清の社長になりました。人の問題は特にこの業界の経営者としては重要なポイントで、お休みも大切なのですが、やはり最後はお給料なのかもしれませんね。つまり今のこの水準を保てるように会社の利益を上げていくことが、結局とても大切なのだと痛感しています。そのためゼネコンさんとの金額交渉は当たり前ですが、大切な精算業務まで毎回真剣勝負で、その意識は、現場はもちろんのこと、事務方の一人一人まで浸透していると思います。
経営者としていつも心に置いているのはこちらの「一倉定の経営心得」です。これ、いつも車の中に入れてあるんです。決して奇をてらわないことばかりなのですが、経営者として大切な戒め・経営の極意が書かれていると思います。
この仕事をするのに大切なことがいくつかありますが、一番に上げるのは「時間を守る」、つまり工期を守るということです。内装工事は最後の最後にやる仕事だけに時間的な余裕は少ないわけですが、それでもそこまで重なってきたしわ寄せを跳ね返し、きっちりと予定通りに仕事を終わらせる。これが信用につながり、次の仕事に結びつくのだと思っています。その他にも内装は目につく仕事だけに「高品質な仕上げ」を行う、そして当たり前ですが「安全な作業」ですね。これからも大変お世話になっている36社を数える清和会の皆さんのお力をお借りしながらチームワークを保ち、一緒に信頼を重ね、良い仕上げを、安全にお納めしていきたいと願っています。
<「吉野石膏」についてお聞きします>
<吉野石膏の担当者と>
佐藤社長)先ほども申し上げたように、先代がタイガーボードに出会ったところから今の渡清があるわけで、切っても切れない仲ですよね。私自身も永一郎さんの頃からスペインやフランス、アメリカなど、何度も海外を夫婦でご一緒するなど、公私にわたるお付き合いなんです。永作さんも息子の結婚式でご挨拶を頂くなど、これからも末長くお世話になりたいと願っています。
仕事のことで言うと、今回もカタログが変わったり説明会があったりと工夫をされていると思います。物流もしっかり管理していただいていますしね。商品的には今後、腕力が無い職人さんも増えていくでしょうから軽量化は引き続き開発していただきたいです。ビスピッチや塗布量なども減らせると良いですね。
タイガー)はい、天井材では防カビタイプで軽い「タイガー不燃ジプトーン・ウルトラライト 防カビタイプ」をこのたび発売いたしました。従来品より25%も軽量化されており施工性が上がっておりますので、是非ご検討ください。
<インタビュー終えて>
どんなジャンルについてお聞きしても、即座に固有名詞と数字を伴ったお話が驚くほどスラスラと出てくる佐藤社長。70歳を前に、今年10月にはご子息である専務に社長を譲られるご予定なのだそうです。大好きな奥様とお二人で楽しい時間を増やしたいというのも、その理由のひとつ。エピソードのひとつひとつに潜むお人柄と、愛と、新しい発想と、行動力と、そしてちょっとお茶目な笑顔に、すっかりファンになってしまったタイガーくんでした。
これからもどうぞお元気で。そして東北のみならず全国の業界発展のために、お力をお貸しください!
この度は沢山のお時間を頂き、ありがとうございました。(・・・美味しいお弁当、ご馳走様でした!)
<黄綬褒章受賞、誠におめでとうございます!>