吉野石膏株式会社


株式会社 カワムラホーム 様

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第三十九回 株式会社 カワムラホーム 様

永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?

企業プロフィール

会社名 : 株式会社 カワムラホーム 様

住所 : 北海道旭川市豊岡4条3丁目7-13

代表者 : 代表取締役 川村 健太 様

会社設立日:1918年(大正7年)4月

事業内容 : 新築住宅販売、リフォーム工事、不動産事業

URL : https://youtopia.co.jp/

第39回のお客様は、北海道旭川市にある 株式会社 カワムラホーム 代表取締役社長の川村健太さんです。


世間が先入観で思う「1918年創業の4代目」のイメージとこんなにかけ離れた方はいないと断言できる次世代リーダーの志は、この業界のみならず、人材に苦労されているすべての経営者必聴です!

<創業106年、カワムラホームのことから教えてください>

  • 川村社長)この会社はずっと一族経営でして、私の曽祖父・川村豊二が1918年に川村建具製作所として創業し、私で4代目を数えます。1918年、といってもピンとこないと思いますが、曽祖父が石川県から屯田兵としてこの旭川にやってきた当時は日露戦争の頃で、北の最前線である旭川には強さを誇示していた日本陸軍第7師団が駐留しており、それこそ当時の旭川は札幌よりも栄えていた時代なんです。その地で曽祖父は軍の施設で木製の建具の製造を営んでいたのですが、戦後を迎え、今度は祖父が若干19歳ながらも家長と家業を引き継ぎ、職人を抱えながら鉄道関係などをお客様に事業を発展させていったんですね。


     その頃、ファスナー製造で有名なYKK AP(当時の吉田工業株式会社)の創業者である吉田忠雄さんが、旭川まで足を運んで、祖父にアルミサッシを売り込みに来たんです。当時は「建具は現場で造るもの」でしたので、この話を聞いた祖父は、「これからは工場でできた既製品を現場で組み込む時代が来るのだ」と心躍った、と聞いています。それを機に仕事の重心を建具製造から建材販売に変更し、この会社の主軸は大工さんや一人親方に建材を売る仕事に変わっていきました。

 当時は現場に図面も無いような状況で、大工さんの腕で出来上がりに差があり、最悪の場合、欠陥住宅のようなものも混在してしまう時代でした。そこで祖父は兄弟と一緒に「人に任せず、自分たちで住宅を建てよう」と計画し、1971年から自社で設計管理した住宅建築を始めたんです。時代は高度成長期でもあり、年間80~90棟を手掛けるぐらいの規模で会社は成長していきました。


 平成の頭ぐらいになると会社を継いだ父が新築だけでなく、リフォーム専門のお店を立ち上げます。それが10年も経つと成長し、時には新築以上の売り上げになるような大きな柱になり、今に至るまで旭川ナンバーワンを誇れるようなカワムラの礎ができました。

<川村社長ご自身のことをお聞きいたします>

川村社長)自分の記憶がある本当に幼少の頃から一貫して、私は経営者になりたかったんですよ。理由は祖父の洗脳です(笑)。会社も住まいのすぐそばで、社員も家にしょっちゅうくる環境の中、祖父から「健ちゃんは、将来この会社の社長になるんだよ」と、本当に沁みこませるように言われ続けました。その頃書いた「将来の夢」という画が、これが面白いんですが子どもの思考は「社長=お金持ち」だったらしく、私のポケットが札束で膨らんでいる将来像でして・・・これ、ちょっと危ない子ですよね(大笑)。


 私は地元の高校を卒業したのち、明治大学の建築学科に進学しました。志のために一直線に選んだ学科と思われるでしょうが、実は「経営者になるんだ」という気持ちと、やるべきことの間に距離がありすぎて、実は当時の私にそれほどの熱は生じていなかったんです。大学卒業後、まずは大手の建材メーカーに就職し3年間働きました。そこでは評価していただけるレベルの成績は残せていたと思うのですが、年功序列に近いシステムに疑問を感じている中で、病気になってしまった祖父のたっての願いである「孫と一緒に働きたい」という話が耳に届き、26歳の時に実家であるここに戻る決断をしたんです。戻ってから祖父が他界するまでの1年間は、毎朝のミーテイングを通じて祖父から直接様々なことを学ぶ、とても良い時間を過ごせたと思います。


 私が戻る前のリフォーム事業で大きな柱だったのが、補助金もふんだんで、売電価格も高かった「太陽光発電」です。一時は2~3億円の売り上げがあったのですが、私が戻った頃には条件が下がったため500万円ぐらいにまで急落しておりました。つまり、リフォーム事業を立て直す必要があったんですね。戻ってすぐにリフォーム事業部の本部長を命ぜられた私は、本州で流行っておりコンサルでも学んだ「工事パック」(キッチンでいくら、トイレでいくら、というパッケージ料金)を打ち出し、てこ入れを行いました。


 一方で新築ですが50~60棟で推移していたものが、様々な理由で32棟まで減ってきたため、6年前、常務になると同時にリフォーム部門だけではなく新築部門もみてくれ、という命を父から受けました。その時に作ったのが規格型の注文住宅「ラクイエ」です。吉野石膏さんのお力もお借りしながら「高性能で低価格」という商品を出したところ、これがヒットいたしまして30棟だった新築が年を重ねるごとに50、70、90、100と数字を伸ばし、今期は150~160棟まで売り上げるようになりました。


 そして4年前のコロナ絶頂の時に社長に就任します。コロナ期に何が起きたかといいますと、新築は予約制にしたためお客さんはさほど変わらなかったのですが、リフォームはご年配のお客様が中心なので訪問しても応対してくれないし、コロナ感染を恐れて家に職人を入れてくれない、工事もさせてくれないんです。さらに、ここは北海道で真冬には工事ができませんから、どうやって4月~11月の仕事を重ねるかが大きなポイントになりました。


 そこで私が取得していた宅建免許を活かし、新築とリフォームの融合型を目指して不動産店舗を作り、情報を集めて、分譲や中古リノベーションという新しい仕事を、コロナの影響で手が余ってしまったリフォーム要員を使って始めました。これなら今は人が住んでいないわけですから、自由に工事に入れますしね。災い転じて、ではありませんが、こんなことや良きコンサルのアドバイスもピタリとはまり、「新築・リフォーム・不動産」という、カワムラなら住まいに関する全てのオーダーが叶えられる「ワンストップサービス」の基本形が出来上がったんです。人の生涯と住まいは切っても切れないものですから、建てるだけでも、直すだけでもない、もちろん売るだけでもない、「北海道から、住まいの相談窓口をつくる」という準備が整い、動き出したということです。これによって利益も、従業員の採用も、彼らの定着も、商圏の拡大も、全ての分野で良い回転が始まりました。


 私ね、運がいいと思うんです。偶然かもしれませんが、必死に頑張れば乗り越えられるような、本当にギリギリレベルのピンチがやってくるんです。そこを踏ん張って乗り越えると、これが必ず次の成功のエネルギーになるんですよ。その逆境を社員と一緒に乗り越えると、全員の自信となり、みんなが笑顔になる。曽祖父から始まった今までの積み重ね、それこそ金融機関さんを始めとした歴史が培ってきてくれたものの全てが肥やしとなり、社員皆んなで、その恩恵を有難くいただけています。会社や仕事への真摯な心を持って向き合ってくれている社員に恵まれていることが一番の誇りですね。

<社長として大事にされていること>

川村社長)一つ自慢があるんです。正確に言うと僕の自慢では無くて、社員が自慢すべきことだと思うのですが、私が20数億円の状態で会社を引き継ぎ、今期52億円、来期は60数億円の売り上げが見込まれている、その社長になってからの4年間で、管理職で辞めた社員が一人もいないんですよ。私は創業者ではないので、普通は既存の社員、役員とハレーションが起きると思うのですがそれが起きていないんです。その理由を考えると、ピンチをバネに変えながら、社員と一緒に新事業を創ってきた成功体験が大きいのかな、と思います。


 そして社長である私が命を懸けていると言っても過言でないのが「人=採用」の仕事です。これ、結局のところ「気合い」なんですよ。経営者が良い人を採るために、自分の時間と、お金と、労力、想いをどれだけ載せられるかという強い気持ちです。


 私は年間100回、合同企業説明会に出てアピールし、そして最終面接を全部やっています。働いている時間の4割は採用に割いているのですね。去年は道外など広いエリアから大卒28人を含む30人を採用しました。人を集めるということはコストでも投資でもなく、会社が成長するのに不可欠な要素で、その証拠にカワムラは新卒を入れ始めてから4年間、増収増益が続いています。若い人を入れて、教育して、定着させ、活躍させることは、会社が成長するためにマストで、これを成し遂げるためには経営者が命懸けで採用と向き合っていないとできません。採用した社員全員が「20代のキャリアをカワムラで過ごせて良かったな」と思ってもらえるようにしたいと、誰よりも強く願っています。

  •  私達が立てている目標は「社員満足度No.1を目指す!」です。多くの会社は「顧客満足度」を目指しているのですが、うちは違います。隔週2日休みを完全週休2日にし、年間休日120日にし、有休消化率を93%までもっていき、さらには高賃金化を社員にも謳って挑戦を続けています。この結果、高い定着率や会社への満足度、ひいては会社の成長、売り上げにもつながっていったのではないでしょうか?そのうち愛知県豊田市のトヨタのように、旭川市をカワムラがあるから良い都市だね、と言われるように成長させたいですね。


     そして、願いは大きく、他の都市でもこの成功体験をベースに、「健太塾」と銘打っているのですが、うちのDNAを持った人をしっかり育てて、事業を拡充していきたいと思っています!

<「吉野石膏」についてお聞きします>

  • <吉野石膏の担当者と>

  • 川村社長)吉野石膏さんの好きなところは何でも先進的に動いてくれるところですね。トップシェアの会社という自負がそうさせているのでしょうが、例えばリサイクル材に対する取り組みとかも、利益だけ考えたら相反する事だったりするじゃないですか。しかし、社会的使命というかそこをしっかり考えて、そして本気で取り組まれていますよね。しかも私たちと一緒に考えてくれる。北海道では吉野石膏しかないはずだからうちなんか応援しなくても良いはずなのに、それでもちゃんと応援してくれる。おそらく吉野石膏という会社に根付いているカルチャーなんでしょうね。ニーズの吸い上げだけでなく、提案もしてくれる。決してトップシェアであることに胡坐をかかず、きちんと向き合ってくれるのが嬉しいです。


    タイガー)北海道で最初に吉野石膏の耐力面材EXボードを使っていただいたのも御社でした。


    川村社長)その頃のEXボードは超重かったですね(笑)。今はEXプログレとか軽くなって助かっていますが。この軽量化も私たちの要望に応えてもらった商品ですよね。こんな動きも吉野石膏という会社を表しているひとつかな、と思います。うちは地域で棟数が断トツですから、うちが採用すると他店が真似する、という事実があります。旭川という地域特性を考えたら「断熱」は欠かせない要素なので、筋交いが減らせる壁倍率の高いEXシリーズは断熱性能だけでなく、施工効率も高まりコストダウンにも有益な製品です。着工棟数が減少気味の中、吉野石膏さんが私たちのニーズを吸い上げて、どんな新製品を作ってくれるのか、それも楽しみにしています。

<インタビューを終えて>

良き流れや新しいヒットにたどり着いていく秘訣は、言うまでもなく勘や運の良さだけではありません。川村社長のお話を伺っていると、そこにはいつも労をいとわず、ご自身で足を運ぶ姿がありました。己の体を動かすことによって、運が動いていく。ひょっとするとこれが「運動」の本当の意味かもしれませんね。


川村社長ご愛用のIncaseのリュックサックには、まだ取り出していない多くの夢が詰まっています。


「旭川から日本各地へ!」タイガーくんも心より応援させていただきます!

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