吉野石膏株式会社


株式会社タカギ 様

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第四十四回 株式会社タカギ 様

永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?

企業プロフィール

会社名 : 株式会社タカギ 様

住所 : 大阪府東大阪市荒川2丁目20-1

代表者 : 代表取締役社長 髙木 守 様

会社設立日:1983年(昭和58年)5月26日

事業内容 : 内装仕上げ工事業

URL :

第44回のお客様は、大阪府東大阪市にある

株式会社タカギ 代表取締役社長の髙木守さんです。

吉野石膏の関西勤務者で、髙木社長を知らない人間は一人もいないとさえ言われている

超有名人の髙木社長。お会いした瞬間、前評判通りに元気いっぱいな声で、横にいた奥様に「ママも写真撮ってもらえ!」。

終始笑いの絶えない、楽しいインタビューとなりました。

<このお仕事に携わったきっかけから教えてください>

髙木社長)僕は工業系の機械科出やからね、建築なんか全く関係なく、ちょうど三色刷りが出来た頃かなぁ、薬の瓶に貼るラベルなどを印刷する会社で働いていました。そこでね、「新住宅」という写真集のような本を刷っていたんですね。その本に「これからはインテリアの時代」とか書いてあるのを見て「綺麗やなぁ」と思い、初めて「住宅」というものに興味を持ったんです。そこで、僕の叔父さんが奥村組の鳶の棟梁をやっていたもんですから、「こりゃ一回、住宅の話を聞こう」となったんですわ。すると叔父は「建築は自分の力次第でできるんや。印刷会社に見切りをつけて、男として一回挑戦しや」と言ったんです。「なんや、偉そうなこと言うなぁ」と思ったんですが、僕は心を決めて23歳で仕事を変えることになりました。

 当時、この東大阪に蔓延していたのは、ゼネコンから来る仕事をいわゆる「バッジ付き(政治家のコネ)」で受注していた建設会社で、この地域一帯の学校の仕事を総なめで関わっとったんですよ。僕が行った先はそこからの仕事を請ける一人親方の、合板ベニアやPタイル、ボード張りなどをやっている内装工事店でした。当時のせっこうボードは殆どが3‘×6’板でね。それを半分に切って作業しとってね。私は職人ではなく番頭さんの仕事で、それでも半年ぐらい現場でみっちり仕事の手順を学びました。昔は軽天が無くモク下地ですから、せっこうボードも釘で打っていて・・・。

 そんなある日、社長が「これ、明日までに全部図面拾っといてや」と言う。相当な量なんです。「これでけたら・・・。ま、やってみい」と言われてね。・・・ホンマにやりました。朝までかかって。合うてるか合うてないか知らんで(笑)。そやけど、俺のやる気をみたんやね。そんなんで仕事をマスターしてきたら、自然に社長も僕の事を頼ってくんのね。7~8年で社長が大病しはって、入院して、僕一人でしょ、すると、現場に行きます、社長おらない、そこで「お前は社長がいないと、何もできない男か」とボロクソ言われましてね。26歳ぐらいの時でした。

 そこからは「よし、1日に2日分の仕事をする」と決めましてね。仕事終わって、病院行って、社長に報告して、・・・この時に自分の仕事をビャッと急成長で覚えたね。・・・今のサラリーマン見てても、1日で2日分の仕事する男は必ず出世しよる。そんな人が何人かおれば、その会社は安泰や。

そこからは社長の得意先であるゼネコン以外にも営業して回って開拓してね、一本柱にならないように東京の会社まで広げて営業していました。それが昭和53年に一本柱であったゼネコンが倒産して、こちらも被ってね・・・。けど、他のゼネコンから請け負った途中の仕事を止めるわけにはいかないですから、職人への支払いは踏ん張った。僕が33歳ぐらいの時でしたが、僕個人のお金で職人の支払いをしましたよ。「なんで私らの貯金まで!」ってうちの母ちゃんにも泣かれてね・・・。この時に倒産という厳しさの何たるか、は経験させてもらったね。この時はね、「僕が発注したんですから、僕が頭下げに来ないと」と悔しいけどお得意さんに頭下げて回りました。「いや、髙木くんじゃなくて、社長が来なきゃダメでしょ」と言われたのですが、僕が自分に対して納得できないからね。

 それを見聞きしたある会社から僕に「月給50万円出すからウチに来ないか」というお誘いがありました。他にも数社から声が掛かりましたが、その中のひとつ日光化成の先代の利倉社長が「うちの傘下になって、そこに籍置いて頑張れや」と言ってくださったので「傘下でいいです。自分で一からやり直します!」と月給50万の会社を選ばずに、昭和55年に僕は「髙木商事」という名前で発足・再始動したんです。机ひとつ、電話ひとつ、ボロボロの軽四1台。あとは日光化成と髙木商事の2枚の看板と名刺、それだけですわ。お客さんによって大手では日光化成の名刺、小さなお客さんには髙木商事の名刺と使い分けして、金額は小さいけど少しずつ増やしていきました。それでもね、竹中工務店さんなんかとも口座ができて。「うちの仕事をしてくれへんか?」って、引っ張ってもらいました。その後、他のゼネコンさんからも「直接取引してもいいよ」との後押しをいただき、3年後には(株)タカギに変わりました。当時、38歳。バリバリやな(笑)。

<髙木社長についてお聞きします>

  • <里親制度の啓蒙活動が紹介されました>

  • 髙木社長)僕ね、生まれが戦時中ですから混乱していてね、親と離れて髙木の家で育ててもろたんですよ。けど、何の不自由もない生活してたら、今の自分やないやろね。人間、磨かれれば磨かれるほど強くなるのは本当や。そういう経験をしてきたから今の自分になってんのちゃうか、と。そんな境遇もあって、今ね、親のいない子、親の事情で育てられない子どもたちの支援を行っているんです。里親制度を広めることが大切でね。平成10年に入会した大阪曽根崎ライオンズクラブ(※髙木社長は現在同クラブ会長)の仲間と一緒に街頭で啓発活動もやっているんです。これは新聞ですが、テレビでも取り上げられたこともあるんですよ。そん時は「お前、なんでテレビ出てんね」って仲間から電話かかってきてね(笑)。「知らんがな!」って(笑)。ライオンズクラブも景気後退と共にメンバーも減ってね。寂しいかぎりですわ。

タイガー)少し、私生活のことを教えていただけますか?

 

髙木社長)私生活?・・・乱れてます!(笑)夜は会があるとかでは出かけますが、プライベートで自分から足運んで飲みに出ることはないです。家ではおかずも自分でやって、茶碗も自分で洗うてなぁ。洗わないで浸けておくのいややねん。昨日は焼きそばや。孫が近大やからうちにずっとおるんですよ。自由な時間はだいたいゴルフやね。練習も行くし。クラブは自クラブのタンベック。ウッドはHONMA使うてたんやけど海外旅行で盗られてしもうて、4番しかあれへんのや。アプローチは7番~9番ぐらいで転がし専門。ドライバーは子どもに買ってもろたやつ。1か月1回は月例で自分のコース。他の週は知り合いのコースへ。

 ゴルフの魅力はね、「自分のスコアに挑戦」。これがもう楽しみやな。目標はシルバーティーでもいいからエイジシュート。けどなぁ、なかなか・・・どっかの2ホールで叩くんです。目標は女子プロの竹田麗央のフィニッシュまで綺麗に振り抜くスイング!あれね、振れる秘訣はトップの位置で力入ったら絶対に無理です。軽くもってね、軽くして、1、2でガァーーっとならんと。ある程度、回転で、右手強くしないで、こう、…とね、振り下ろすときにスピードがこうバァーっと出るようにね、ここでやったら固くなって出やへんので、こうな、こう…僕ね、160YDを5番アイアンで打つねん。(…以下、熱が入り割愛)。ドライバー変えよかなと思うんやけど、診てもらう人がおらんし…。エイジシュートのためにクラブ買い替えようかなぁと。打倒・加藤や!

 

  • <愛用のクラブ。買い換えますか?>

<「吉野石膏」についてお聞きします>

髙木社長)昔ね、ある会社がGLボンド出しているのに、この会に入っていたので抜けさせたこともあるんですが・・・吉野石膏関西GL施工同好会も今20何社ですか・・・、会の力を保つためにもできるだけ派閥が無いように、みんな一丸になって輪になって、この会をまとめなあかんなというのが根底にあるんです。小松支店長時代に会の名前に「吉野石膏」という名前を付けてくれないかと提案がありまして、今後のGL施工同好会の発展ためにも吉野の名前を使わさせてもらおうと・・・、付けさせてもらうべきだと判断したのですが、付けた以上は、裏切ったらあかんし、もう関わってから30年ぐらいやっていますが、吉野の名前が付いてから24回目の総会を迎えました。・・・やる以上はしっかりやらんとね。

昔話しますとね、二階堂さんとか初田さん(かつての吉野石膏担当者)とかは仕事が終わるころを見計らって、僕を個人的に呼ぶんです。「まだ仕事してんの?いいよ、しっかりやって。終わったらいつもんとこで待ってるから」ってね。そう言われたら行かなぁしゃあない(笑)。淀屋橋から新地のお決まりのコースで。気に入られたのは、たぶんミナミの楓っていうスナックで覚え、何十年もやっているこの三度笠やないかと。これもちゃんと振付があるんや。腕こう持って、こうやって・・・な、斜めにこうやったら違うやろ。歌舞伎になるやん(笑)。・・・また吉野さんがね、宴会に三度笠と合羽と刀を持ってきよるんですよ、北海道から九州までどこでも!だからGL会を担当してる社員さんは、皆んな知ってる(笑)。・・・するとな、須藤社長も乗ってきよるがな。GL会にお見えになると、日ごろ隠してはる顔を見せて、アニメの歌とか大好きやから歌いよって大いに盛り上がるんです。

・・・昔の人は豪傑やったね。今はGL会でも吉野石膏の支店長さんはみんな遠慮しよるから、デンと真ん中に座って欲しいですわ。

 

吉野石膏は日本一の燃えない建材・せっこうボードのメーカーで、しかも安価で、人の生命を財産を守る。それを考えると、僕らは日ごろは「安くして、安くして」言うけど、本来はベニヤと同じぐらいまで価格を上げてもいい商品やな、と思います。

  • <さすが決まってます。「よっ!日本一!」>

  • <須藤社長のお隣が記念写真の定位置です>

  • <吉野社員は、みんな髙木ファンです>

<インタビューを終えて>

二十年以上ご無沙汰していたかつての吉野石膏の担当者が開口一番「何も変わっていらっしゃらない。当時のままのお姿です!」とびっくりしていました。それもそのはず、ずっと病気知らずのお身体なのだとか。健康法は飲む黒酢とりんご酢。

会社をご子息に無事にお渡しする日まで、そしてエイジシュート達成の日まで、どうぞご家族揃って、益々お元気でご活躍ください!

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