吉野石膏株式会社


株式会社 ヤマムラ 様

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第五十回 株式会社 ヤマムラ 様

永らく吉野石膏の商品をご愛顧いただいている
お取引先様のお気持ちを“吉野愛”という言葉に
置き換えて、そのお心をお伺いに回る
タイガーくんの“吉野愛”をたずねて。
お仕事への思い、商品への思い・・・。
さて、どんなお話が飛び出すでしょうか!?

企業プロフィール

会社名 : 株式会社 ヤマムラ 様

住所 : 山形県新庄市大字福田字福田山711番地6

代表者 : 代表取締役会長 中村 忍 様

会社設立日:1965年(昭和40年)5月1日

事業内容 : 建築工事業・内装仕上工事業・不動産業・木建材販売業・製材業

URL : http://www.yj-co.com

第50回のお客様は、山形県新庄市にある 株式会社 ヤマムラ 代表取締役会長の中村忍さんです。

 

どのお話を聞いても「縁に恵まれているなぁ」と感じるエピソードばかり。しかしご縁に繋がる発端は、全て中村会長の「行動」から始まっていました。

<始めに中村会長ご自身のことから教えてください>

中村会長)実は、私は山形の人間ではなく生まれ育ちが東京で、3代続くと江戸っ子といわれますが、もう4代目ぐらいの生粋の東京人間なんです。若い頃からとにかく旅が好きだったものですから、高校2年生の春休みには寝袋を1個持って、20日間かけた九州一周旅行なんかも経験しました。大学4年の時には1年間休学をして、渡米もしたんです。もう50年以上前の話ですからお許しいただきたいのですが、現地では学生の身でありながら、ディスコのような店で照明係と清掃のようなアルバイトをして過ごしていましてね。当時のレートは1ドル360円、そんな時代に月給で400ドルももらっていました。日本円に直すと144,000円ですよ。ちょうどその頃は日本にマクドナルドが初上陸したあたりで、ハンバーガーは1個80円、初任給は3~4万円の時代ですから、向こうで日本の4倍ぐらいのお給料をもらっていた、ということになりますね。その後、皆さんご存知のように日米で賃金の逆転現象が起きたのですが、昨今はまたこの時のようにアメリカの方がずっと高賃金という状態に戻ってきてしまっているのは、とても複雑な心境です。


 先日、長いことコロナで我慢していた身を開放して、パリオリンピックに行ったんですが、まあ、あちらの物価の高い事!「これぐらいの値段かな?」という肌感覚の3倍はするんですよ、何をやっても。…私はこのまま日本が貧乏になってしまうんじゃないかと、本当に心配しています。


 この多少培った英語力を活かしまして、帰国後はそのまま広告の仕事に就いたんです。勤め先は石油会社のハウスエージェンシーのような会社だったので、社内報の編集や、関連資料の翻訳などの仕事を5年ほどしていました。この会社に入社する際にも「1年のうち1か月ほど、旅をしたいのでまとまった休みが欲しい」と言い放っていましたので、まぁ、この時も良く旅をしていましたね。5年働いたのちにこの会社を退職したんですが、そのタイミングで、男友人と二人で北海道旅行に出かけることにしたんです。訪ねた網走では友愛山荘という国民宿舎的な宿に泊まりましてね、夕食を迎えると4人掛けのテーブルに、僕ら二人と、二人組の女性、つまり男女2名ずつが向かい合わせに座ることになったんです。当然、夕食ですから、まずは食事をしますね?そして食後はお茶をして…、という流れから相手方と仲良くなり、そこから3~4日間、彼女たちは旅の供となり、一緒に過ごすことになったんです。旅先ということもあり、話が弾みましたね。


 山形から来たという彼女とは旅の途中で別れたあと、私もどうにも気になったのでしょう、帰路の途中の函館で、ふと彼女の家に電話をしたんです。そうしたら電話の向こうから、「ちょうど地元・山形で有名な新庄まつりがあります。祭りを見がてら、山形に寄って行きませんか?」と誘われたんですね。それでは…ということで函館から山形に向かい、大きな祭りを見物し、その日は彼女の家に泊めていただいたんです。…その時に心が動き「ああ、この女と結婚するのかなぁ」って思いましてね。結婚するなら無職じゃいけないなと思い、東京に戻ってすぐに再就職したんですが、そこからは話も早くて、なんと2か月後には結婚が整ってしまいました。


両家の顔合わせとして、私の父が持っていた神奈川県・葉山の家に妻のお父さんが来た時に、「ところでどこに住むんだ?」と何回も何回も聞かれたんです。彼女も私も東京で暮らすつもりでしたから「そりゃ東京ですよ」という答えを重ねる中、ついうっかり「将来は蔵王あたりでペンションでもやってみたいですねぇ」と軽口を叩いたところ、「それはいいことだ。ただ、そのためには山形を知らないといけないから、ではこの1、 2 年、試しに山形に来て住んでみなさい」と丸め込まれ、新婚生活は山形暮らしからスタートしました。その時にこの会社に入り、気が付けばそこから今日まで 48 年間、今に至る、です(笑)。

  • タイガー)なんかドラマにも無いような、すごいご縁ですね!

     

    中村会長)でしょ?当時はこの会社は材木業でして、妻の身内もいたものですから、私は何かやらねばと、未知の世界でしたが内装業がいいだろうと、仲間と二人で、二人三脚で始めたんです。軽トラで材料運んだり、職人さん雇ったりしてね。妻のお父さんが高校で教員をやっていて、たまたま職人が教え子にいたりとか、酒田の大火からの再建のお仕事などあったりなどが積み重なりまして、1年目から8,000万円を売り上げ、あれよあれよという間に3~4年後には早くも東北で1番の会社になっていました。人口わずか45,000人ぐらいの市にある会社ですけど、秋田に続いて、東京支店も40年前に開設し、そのあと7年後に仙台も作って、みんなゼロから僕の代でやりましたからね。

    まぁ、ひたむきにやってきたお陰か、58歳の時に黄綬褒章も頂きました。本当にありがたいことです

タイガー)ヤマムラのお仕事の内訳を教えてください。

 

中村会長)一般住宅から、大型の店舗、学校、公共施設、介護施設など幅広くやってます。


 昨年の年商が70億円ぐらいですかね。建築全体は今ちょっとの状態ですが、元々うちの会社は世の中が悪い時の方が、調子が良いことが多いんです。90年バブルの時は東京の売り上げが最高で、弾けると今度は公共事業が地方に発注されてくる。例えばこんなこともありました。「原価償却」って木造が20年、鉄骨・RCは35年、50年なんですが、30数年前、全て鉄骨造りだったファミリーレストランがバブル弾けてローコストにする必要が出たため、すかいらーくグループのバーミヤン、藍屋、ジョナサンを木造化するための手を貸してくれと先方の役員の方がやってきて、…こんな田舎の会社に、先方からですよ、結果、関東の店舗を全部うち手がけることになりました。うちが「木造耐火のスペシャリスト」であるとどこからか聞きつけられたのでしょうね。そこからは他のファミレスもどんどん木造化していきましたね。東日本大震災の時も応急仮設住宅も施工部隊として白羽の矢が立ち、招集を受けましてね、一部上場会社をうちが真ん中に立って繋ぎ合わせて250戸やりました。ピーク時は650人ぐらいの職人さんがうちの仕事をやってくれていましたね。


 あと、東京の台東区・入谷にある銭湯を古民家風にリノベーションして、サテライトオフィスとカフェ「rebon Kaisaiyu(レボン快哉湯)」をやっているんです。NHKのEテレでも取り上げられたんですが、なかなか好評でして。珈琲も本格的ですし、浴場の部分ではイベントなども開かれています。銭湯の佇まいがなかなか他にない味がありましてね。是非一度足を運んでみてください。

  • 〈レボン快哉湯 外観〉

  • 〈レボン快哉湯 内観〉

<「吉野石膏」についてお聞きします>

  • 〈先代・永一郎社長と一緒にヨーロッパ旅行で〉

  • 中村会長)35、6年前になるのかな、東京ドームの内装工事をうちの会社がやったんですよ、山形の会社なのに。それとか渋谷のNHKホールとかね。こういった内装工事がうちの1本の柱なんです。木造建築のパイオニアという意味では、全国でも代表的な会社ではないでしょうか?「木造耐火構造」の第1号は愛知県豊田市の老人介護施設なのですが、それもうちの会社の仕事です。つまり「せっこうボード」が無くてはならない仕事を得意分野としているんですから、それは深い関係値ですよね。SDGsとかで木造が再評価されてきていることもあり、これはうちにとっても良い流れだと思います。材木屋さんの団体、内装屋さんの団体、両方にまたがっているのは吉野石膏さんとうちぐらいじゃないでしょうか?だから吉野石膏の先代・永一郎ご夫妻とは両団体とも関係するものですからヨーロッパ旅行など、15回以上はご一緒しましたよ。

<インタビューを終えて>

  • 〈吉野石膏の社員と〉

  • 「社長になって30年ですが、日本が衰退していく姿を目の当たりに見ているような気がします。その原因は俺たち団塊の世代なんじゃないかと、多少の無力感がありますね」と話す中村会長。


    時には全て投げうって放浪の旅に出たいという衝動に駆られることもあるそうです。役員としてご活躍されている二人のご子息も、すでに中村会長が社長職に就かれた年齢になっていらっしゃるそう。


    令和7年6月より社長を退かれ会社はご子息に引き継がれましたが、パワーアップすら感じられる中村会長。インタビューを通じて「バトンを渡すというよりは、並走しながら、エンジンが2個、3個の会社となって、さらにエネルギー溢れる状態になるのだろうな」と、タイガーくんは思いを強めました。

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